やってみる

アウトプットすべく己を導くためのブログ。その試行錯誤すらたれ流す。

森喜朗に逆らえない選手たち

 選手たちは森の差別発言に声を上げられなかったらしい。企業から止められていたようだ。

オリンピック選手が差別に屈している

 選手は企業の雇われ広告塔である。企業の上部は政治家と癒着したクズである。選手は雇い主に従い、雇い主は政治家に従う。よって末端の選手は権力者に逆らえない。差別に屈する。いったい、誰のためのオリンピックなんだろうか。

閉鎖社会

 権力がすべての抑圧された閉鎖社会。暴力であり平和とはほど遠い。しょせんオリンピックの大義などお題目にすぎない。ワイロの名目としてオリンピックを利用しているだけ。

スポーツ離れ

 スポーツが嫌いになる。経済社会は人から搾取するシステムである。スポーツも経済システムに組み込まれている。

動機
政治家 俺にカネよこせ
企業 わが企業の名を売れ
選手 スポーツで食っていきたい

 権力者の欲望によって何もかもが台無しになる。スポーツもしかり。どうせゲームの勝敗だってワイロ次第なんだろ? とか思ってしまい白ける。

 大学の合否だってワイロ次第だもんね。まじめに勉学や鍛錬するのがバカらしい。こうして腐り果てる。どうせワイロだってなくならない。むしろ肥大化する一方。あーあ、もうやーめた。

現実逃避できない

 もうスポーツで現実逃避できない。リアルは競争であり殺し合いだが、スポーツはそれを仮想化したものである。実際に殺されるわけではない。観客は安心して見れるし、選手は真剣に戦える。しかしリアルの汚い略奪事情をかいまみてしまうと、もう現実逃避にスポーツ観戦なんてできない。なんだ、結局リアルと同じじゃないか。目が覚めてしまう。あーあ、汚い現実から逃避したくてスポーツを見ていたのに。もういいや。さようなら。

スポーツ=差別

 残念ながら、スポーツ=差別、という図式が確立してしまった。べつにスポーツだけではないのだが、平和の祭典というお題目でやっていたのが大きい。さらに、ここ数年たてつづけにワイロだの差別だのと悪い意味で賑やか。もはやスポーツは健全な競争だの戦争の代わりだのという考えはないのだろう。ただ権力者が愚民からカネをしぼりとる口実でしかない。こんな社会を腐らせるスポーツ、政治、社会なんぞとは縁を切ろう。そう思ってしまう。

スポーツを推進する人=差別主義者

 必然的にそう結びつけてしまう。必ずしもそうではないだろうが、このコロナ渦中において差別とワイロがはびこるオリンピックを推進する理由は、コロナよりも自分の金儲けを優先しているからだろう。そんな人を軽蔑するし、関わりたくない。社会にコロナ菌をまきちらすバイキンのように思えてしまう。それよりも先にリモート化など、すべきことがあるだろうに。べつにスポーツをするなと言っているのではない。優先順位がおかしい。そんなの明らか。さらに差別やワイロがあってもやる。そりゃ白けるどころかヘイト集まって当然でしょう。

オリンピックやめろ

 ワイロ祭りに税金を使うな。スポーツ=差別。スポーツに加担することは差別を助長する。本当はそんなことないはずだが、権力者という差別主義者が胴元であるかぎり、この差別構造はかわらない。できることは縁を切ることだけ。さようなら。私は差別や権威に加担しません。

対象環境