やってみる

アウトプットすべく己を導くためのブログ。その試行錯誤すらたれ流す。

今月の目標:今週のお題で記事を書く

 今週のお題「今月の目標」に答える。

今月の目標

 私は目標をたてるのが嫌いだし苦手だ。「よしやるぞ!」と決めた時点で、なんかもう疲れて嫌になる。よしんば続いたとしても時間がたつと「なんでやってるんだっけ?」となるからだ。一ヶ月も持たない。いや、3日も持たない。私はそのときの気分で生きている。

ちょうどいい目標

 はてなのページには以下のようなアドバイスらしき一言が書いてあった。

ちょうどいい目標を立てよう

 1ヶ月以内に達成できるようなちょうどいい目標を立てろ、ということだろう。

 これが難しい。規模感がわからない。日々、目標を達成するような生活サイクルを繰り返していなければ1ヶ月以内に終わるちょうどいい目標など思いつくわけがない。

 これでは1ヶ月規模の目標を思いつくことが目標になってしまう。本末転倒だ。

 ん? まてよ? 私にとってはそれこそがちょうどいい目標なのでは?

 というわけで、「今週のお題」を書くことを目標にしてみた。

 自分で目標をたてることができなければ、たまたま目についたちょうど良さそうなことを目標にしちゃえばいいじゃない。

私は目標をたてるのが苦手

 やらねばならないことは仕事でタスク化するので別にいい。(やるとは言ってない)

 じゃあ、日常生活における目標ってなんなの?

 お題のいう目標は仕事のようなやるべきタスクのことではないはず。何をやるべきか。そこから考えることなのだろう。たとえば読書の秋だから「1日1冊本を読む」とか。

 でもちょっと待ってほしい。「目標を立てよう」と思ったとき、どうしても立ちはだかる壁がある。それが動機だ。

なぜ目標をたてるのか?

 目標って、なんのために立てるの? 仮に理由があっても気持ちが続かなかったらやめるべき時だってあるわけで。だったら事前に目標を立てるんじゃなくて、その時々でやりたいことを、できる範囲でやればいいんじゃないの?

 皆やっているから。何かを成し遂げない人生に価値はないから。何かを成し遂げるために、まず目標をたてる。そんな強迫観念によってやらされている。目標を立てされられている。そこに気づいてしまったが最後だ。

目標をたてて実行する<<<やりたいことをやる

 主体性のない目標立てはやる意義も価値もない。ただ息苦しいだけだ。そこに気づかないままやってしまうと、やりたくないのに「やらなきゃ!」と思って辛くなる。嫌々やることになる。嫌なことなので身にならない。やめたほうがいい。その時間にやりたいことをやったほうがいい。何もしたくないならボーッとしていたほうが有意義だ。

 代わりに「今やってみたいと思っていることは?」と自問自答して書き出したほうがいい。これなら後でやりたくなくなっても「今はもうやりたくないからやらない」といってスパッと切れる。私はこうした取捨選択が苦手なので、事前に事後のことを考えて先回りしておかないとうまく回らないのだ。

 「今やりたいこと」は事前に決めることではない。そのときに決まることだ。もし予め先に決めておくべきことがあるとすれば「やるべきこと」ではなく「やめるべき理由」である。さもなくば嫌々やって辛くなり限界に達して「もう二度とやるもんか!」となってしまう。

 我ながら面倒な性格だ。しかしここを面倒がらずに面倒をみてやることでしか何もしないのが私である。現実をみて受け入れた上でやっていくしかない。

やってみる

 便宜上「やってみたいこと」と書いたが、正確には「今やってみようと思えたこと」である。「やってみたい」とは少し違う。

 予め「面白そう」とか「楽しそう」などのポジティブな感情があるわけではない。もしこれをやったらこうなるのでは? という将来への期待はある。なので少しやって「違うな」と思ったらあっさりやめることもある。

 とにかく「やってみる」。そうしないと良いのか悪いのかもわからない。だから「何でもいいから目標をたてる」という考えもあるのだろう。私はそれに対して色々と予防線を貼っておかないといけないだけだ。それにどちらかといえば「やろうと思ったときにやってみる」くらいがちょうどいい。それを「目標」などと大仰な言葉にするから重く感じて嫌煙してしまうのだ。

 もっと気楽で柔軟にやりたい。目標だと固すぎるし重すぎる。「やってみる」「やってみた」くらいがいい。適当でゆるい感じ。でもそれに相当する熟語がない。「挑戦」なんて目標よりも余計に重くなる。「達成目標」でなく「行動目標」とか「努力目標」くらいが近いのかもしれないが、それでも固い。やはり「やってみる」というゆるいひらがな表記がしっくりくる。

重さ マジ ゆるふわ
2 努力目標 やってみようかな
20 行動目標 やってみる
100 達成目標 やる、やってみた
1000 挑戦 やってやるぜ!

やってみようかな

 「今月のやってみようかな」のほうがいい。

❌ 今月の目標
⭕ 今月のやってみようかな

 すごいバカっぽい。世の中をなめているとしか思えない。でもこれが私なので仕方ない。どれだけ惨めでもきちんと自分に向き合っている私はとても偉いと思う。きっとコメントでたくさん褒めてもらえるに違いない。

比べてわかる秀逸さ

 考えても見てほしい。「今月の目標」だと「いや俺いまやりたくねーし」と思ってしまう。目標=義務みたいに捉えてしまって辛い。仕事で事実上の義務として使われているからだろう。家の中でまで目標というパワハラ・ワードを使いたくない。つい意味もなく反発したくなっちゃう。生涯反抗期の私にとっては天敵のような言葉だ。

 それに対して「今月のやってみようかな」はすばらしい。そのときの私の気持ちを慮り、寄り添ってくれている感がある。やるかどうかの決断を、そのときの私にゆだねている。過去でなく今をみている。ちゃんと主体性をもたせようとする心配りが嬉しい。上から目線で義務であるかのように押し付けてくる目標とは一線を画している。これは革命的な大発見だ。私は天才かもしれない。

伝わらない悲しみ

 でも「今月のやってみようかな」では人に伝わらない。バカであることしか伝わらない。なので仕方なく嫌々「目標」という言葉を使うことにする。

 だれか新しい言葉を考えてほしい。私としては「心標」「心目」あたりがいいと思う。目にみえる標ではなく、心の中にある標。心の目でみる何か。でも人には伝わらないし、自分でも「は?」と思うので使わない。

 私がここでいう目標とは「今『やってみようかな』と思えたこと」である。実際にやる保障なんてない。ふわふわした無責任な言葉だ。それを踏まえた上で聞いてほしい。

 さあ、今月の目標を決めよう。

今月の目標:今週のお題で記事を書く

 主体性のない目標立ては論外。だが、外から影響を受けない目標立てというのも非現実的だ。実際はなんらかの刺激をうけて、それがきっかけになって動く。なので今回の「ちょうどいい目標」とやらには、まさに「今週のお題に答えて記事を書くこと」がふさわしいだろう。

 2021年の10月は、すべての「今週のお題」に答える。

 忘れるかもしれないが、覚えているかぎりやってみようと思う。嫌だと思ったら絶対にやらない。あるいは嫌だと思ったので書かなかったこと自体をネタに書いてみようと思う。それなら書けそうだし、書いてみようと思えそうだから。

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