ゲームを作ろうと思ったが、ゲームの定義を知らないことに気づいた。
ゲームとは?
ゲームとは、勝敗を決めること。
ゲーム(英: game)は、勝負、または勝敗を決めること。守るべきルールがあり、環境または他人との相互作用を元に行なわれる活動である。日本語に取り入れられた際にプレイ(英: play)と混同される。
違和感
え、勝敗を決めないものはゲームじゃないの? エンドレス・プレイするぷよぷよってゲームじゃないの? クリエイティブ・モードのマインクラフトってゲームじゃないの? いや、あれもゲームでしょ。それとも、それらは「プレイ」ってヤツなの?
Gameplayによると「チャレンジとその克服」とある。おそらくゲームが何らかの課題を提示し、プレイヤがそれを克服することをゲームプレイと呼んでいる。
ゲームプレイって、ゲームとプレイ両方入っている言葉じゃん……。混同も何も、言葉がすでに一体化しているため「ゲーム」と「プレイ」の意味を区別できない。
ぷよぷよでいうと、ストーリーモードがゲーム提示された課題。そして、エンドレス・プレイはその練習用でもあるが、自分で縛りプレイをして自ら課題を出して遊べるものでもある。この辺りから「ゲーム=勝敗」説が怪しくなってくる気がする。
ただ、Gameplay定義の曖昧さについても指摘されている。もっと色々な観点から考えてみよう。
私が思うゲーム
ゲームとは、遊戯である。楽しむことを目的とした行為全般を指す。
ゲームへの姿勢
じつはゲームへの姿勢によって2種類の人間に大別される。
- ガチ勢
- エンジョイ勢
あなたはどっち?
姿勢 | ゲームとは | 目的 |
---|---|---|
ガチ勢 | 勝敗を決めるもの | 勝利、記録更新、業界最強 |
エンジョイ勢 | 楽しむもの | 自分が楽しむこと(手段を問わず) |
なお、どちらにも属さないタイプもいる。
呼称(仮) | 特徴 |
---|---|
コンシューマ | 消費者。楽しみはいつか誰かが与えてくれると信じている。自ら楽しみを探さず、口を開けて待っているだけな点がエンジョイ勢と決定的に異なる点。勝利のために技術を磨くのではなく課金する。 |
ライトゲーマ | ゲームにかける時間・熱量・要求が少ない。適当に遊んで気分転換できればいいと思っている。コンシューマよりは能動的だが、ガチ勢・エンジョイ勢ほどではない。 |
以下のように呼び分けるかと思ったが、そういうわけでもなさそう。
- ガチ勢: ゲーマー
- 他: プレイヤー
ゲームの歴史
私が思うに、生存競争が仮想化していき、ゲームになったと思われる。
1。現実(デスゲーム)。最初は生物が互いに騙し合って肉体を食らうことで生き延びるサバイバルゲーム、ライフゲームだった。
2。コロッセオ。サバイバルゲームは、ローマのコロッセオによって仮想化された。殺し合いは偶発的に生じるのではなく、決まった日時・場所で、人間同士が行う。胴元は愚民のガス抜きとして政治批判を避け収入を得る。プレイヤは殺し合い、観客はそれを安全地帯からみて楽しむ。
3。スポーツ。殺し合いは仮想化され、生死でなく勝敗に代わった。これにより敗北しても死なずに済む。敗北を次回に活かすことで技術の向上が見込めるようになった。人を消費コンテンツとしてみたとき再利用性が高い。
4。カード。肉体を仮想化。自らの体を動かすのではなく、カードやコマなどに仮想化したものを動かす。プレイヤは自らの体ではなく頭を動かすようになった。もう体は痛まない。
5。ビデオゲーム。カードやコマすら仮想化。電子化により物理的な媒体を減らし、映像や音声で対話する。プレイヤが触れるものはコントローラで、頭と目と指先を動かす。
なお、現代社会は経済であり、マネーゲームとも言える。実際に勝敗があり生死に関わる。そして重度のゲーマーは、「リアルはクソゲー」などと言い出す。私たちは常にゲームの中にいる。ログアウトできないデスゲームのプレイヤなのかもしれない。
「罰ゲーム」
人は「罰ゲーム」を求める。なぜか。ゲームの源泉が生存競争だからではないか。
人は勝敗をつけたい。勝敗をつけることは、他者を殺すことである。罰ゲームを負わせることは、殺害の仮想化といえる。何かにつけて罰ゲームを課してくる人間は、内心で人殺しを求めるガチ勢かもしれない。(偏見)
あるいは人が苦しむのを見て愉しむエンジョイ勢かもしれない(偏見)
あるいは自分の苦痛する可能性をベットして、どうなるかわからぬ未来を夢想し愉しむライトでコンシューマな人かもしれない。ジュース一本などしょぼいものしかベットできない臆病者でもある。(偏見)
まとめ
- ゲームとは生存競争の仮想化である
- 人がゲームに求めるものは「勝利」と「娯楽」
- どちらを求めるかでガチ勢とエンジョイ勢に分かれる
思想 | ゲームへの姿勢 |
---|---|
ガチ勢 | 殺害衝動を勝敗に仮想化して発散するアサシン |
エンジョイ勢 | 殺害以外にも楽しいことを何でも追求・模索するルールブレイカー |
結論
ゲームとは、体験により感情が動くものである
思想 | ゲームへの姿勢 |
---|---|
ガチ勢 | 殺害を仮想実現して喜びや達成感を得る(殺人アドレナリン効率厨) |
エンジョイ勢 | 殺害以外にも楽しいことを何でも追求する(快楽ヤクチュウ・ジコチュウ) |
ゲーマが求めるものは「生存」「勝利」「娯楽」
- 生存(物理資源の略奪・獲得(肉、食料))
- 勝利(社会地位の略奪・獲得(金、名誉))
- 娯楽(仮想体験・感情体験)
移りゆくゲーマの姿勢
昔はガチ勢が多かったと思われる。しかし仮想化により求めるものが多様化した結果、エンジョイ勢なる者たちが出てきた。
「生存」と「勝利」には、必ず死者・敗者がいる。だが、「娯楽」には死者・敗者が出るとは限らない。たとえばママゴトのようなごっこ遊びの「娯楽」なら出ない。
Gameplayはシステムとの対話である。人との対話ではない。人同士で殺し合って血肉を奪い合ったり、勝敗を決して富と名声を得ようとするのは、すべて人との対話だ。
対して、ビデオゲームなどのGameplayは、ボッチが画面に向かって操作し、独りニヤニヤするものが始まりだ。最近ではネットのおかげで対人や多人数協力型などのスタイルも登場した。
昔はビデオゲームなど無かったから他人というコマがゲームに必要だった。しかし今はコンピュータという仮想の人間がいる。実際に人殺ししなくても、ゲーム内のゾンビを殺すことができる。このような仮想体験をし続けてきた結果、人類から「生存」や「勝利」への執着を脱した新人類が生まれた。それがエンジョイ勢である。
エンジョイ勢とは、生存競争の仮想化により価値観が多様化した結果生まれた新人類だ。運動会ですら競争でなく全員同着一位とか、皆違って皆いいとかの風潮が生まれてきた。
現在のゲームプレイ環境では、ガチ勢、エンジョイ勢、コンシューマ、ライトゲーマが渾然一体となってカオスになっているらしい。現実世界でも価値観の違いによる人間関係のトラブルで生きづらいらしい。このクソゲーを愛せるかどうかが楽しめるかどうかに直結するだろう。
所感
ゲームは楽しければいい。
それが答え。だが、何をもってすれば楽しくなるのか。これがわからないとゲームを作れない。
あと、「楽しい」と「面白い」の違いも気になる。
本や映画、ボードゲームなど他の媒体との違いも気になる。
ゲームについて語り尽くせていないことも多数あるはず。RTA, TASなどガチ勢の世界もよくわからん。私はスーパーマリオで高得点プレイとか、理解できない。その前にクリアできない。
対象環境
- Raspbierry pi 4 Model B
- Raspbian buster 10.0 2019-09-26 ※
- bash 5.0.3(1)-release
$ uname -a Linux raspberrypi 4.19.97-v7l+ #1294 SMP Thu Jan 30 13:21:14 GMT 2020 armv7l GNU/Linux