やってみる

アウトプットすべく己を導くためのブログ。その試行錯誤すらたれ流す。

scrapboxの共有編集によってなぜか自己否定に陥った

 Webサービスscrapboxを使ってみたが、勝手に編集されることで「私はいらない子なんだ」と思うのがつらい。その予期不安に耐えられなかった。ブログのほうが好き。

scrapboxとは

 scrapboxとは、みんなで編集できるミニブログのようなもの。

特徴

  • 1記事あたりの文章量が少ない
    • 箇条書きをベースとする(見出しなど使えるHTML要素が少ない)
  • 単語をベースにして自動リンクする
  • みんなで編集できる

使ってみた

 とりあえずscrapboxの使い方についてを書いてみた。

好きなところ

  • すぐに書き出せる

 書くときの話。1記事あたりの規模は小さく箇条書きベースでしか書けない。見出しレベルをつくって詳しく書くこともできるが、箇条書きベースが基本のようだ。

 その制約は、裏を返せばすぐ書き出せるというメリットともいえる。タイトルと同じ単語をかけば自動リンクになってくれるのも便利。ほかにもサクサク書ける細かい工夫があった。

 ただ、HTML要素は制限されてしまうし、タイトルはよく考えないと重複したり、意図しないリンクができてしまう。ざっくばらんに書くには面白いツールだと思った。

嫌いなところ

  • クリック数がふえる

 読むときの話。1記事あたりの文章量が少ないため、さらなる情報を得るために別記事のリンクをクリックして辿ることになる。その回数が多いのが嫌だ。ページ遷移にともなうタイムラグが大きいのが嫌。前のページに戻るときも同じ。

 クリックしてページ遷移するより、マウスホイールで画面スクロールするほうがタイムラグが少ないので嬉しい。つまりWikipediaのように1ページあたりにそれなりの文章量があるほうが素早く閲覧できて嬉しい。

 scrapboxの用途は百科事典のようなまとめられた情報ではなく、チャットほどの短文でもなく、その中間くらいのものなのだと思う。ブレーンストーミングのようにサクッと思いつきを発言し、箇条書きレベルでまとめることもできる。そういった使い方が主なのだろう。

私にとって最大の障害

  • みんなで編集できる

 scrapbox最大の特徴は、みんなで編集できることだと思う。公式でも最初のページでは以下のように書いてあった。

チームのための新しい共有ノート

企画書やマニュアル、アイデアなど、チームに必要な情報を
何千何万という単位で軽快に管理できます。

 scrapboxはそういうツールなのだと思う。きっとその用途で使えばとても便利ですばらしいのだろう。ただ、ブログに慣れきった私にとってはとても強い違和感、モヤモヤを感じた。

みんなで編集できることへの悩み

 私はscrapboxの記事をひとりで書いていたし、許可しないかぎり他の人に編集されることはない。そうして使う分には何のモヤモヤもなかった。

 ただ、scrapboxへ要望を出すページがあって、そこでみんなで編集することを体験した。そのとき多くの心理的負荷を感じたのだ。

 まず、私は以下のような要望を書いた。そのままでは記事を書き換えられてしまうため、要望を書くサイトに投稿する前に、自分のサイトに残しておいた。それが以下だ。

 これが最初の面倒ポイントだ。

 まず、こうやって「書き換えられる前の原文を残しておいたほうがよいのでは?」という懸念を思い、その対策として記事をわざわざ作って残しておくのが面倒だった。なぜこんなことを懸念したかというと、知らない人に編集で消されて「そんなこと書いてなかった」といわれるような、言った言わない問題になるんじゃないかと恐れたからだ。

 そしていよいよ本番。要望を投稿するサイトに書いたのが以下。

 かなり大量に追記されている。ほとんどは私が追記したものだ。最初は概要だけでよいと思ったのだが、応答をもらったことで詳しく書いたほうがよいと思って追記した。

 ただ、この文書をみて思うことがある。だれがいつどこに何を書いたかわかりにくくない? どの応答への返しとして何をどこに書いたのかわかりにくくない?

 どう書くべきなの? たぶん、箇条書きで書くのが正しい作法だったのだろう。私としては、できるだけそうしたつもりなのだが。それでも見出しはあったほうがいいのでは? 言いたいことを言うにはきっちり書きたい。でも、きっちり書くと他の人が追記しづらいのでは? 箇条書きでぜんぜん足りていない状態だからこそ、他の人が追記しやすくなるのでは? そのへんのバランス感覚がよくわからなかった。

 あと、答えてくださった方は開発者ではないらしい。私はそれをわかっていなかった。でも、それに対する応答を書いたら余計に文章がぐちゃぐちゃになってしまう。でも、無視するのも心苦しい。せっかく答えてくださったのに。でも本題と関係ない文章ばかりが増えたら、主旨がわかりづらくなる。本質の「要望」から遠ざかってしまう。一体どうしたらいいんだ。などと、モンモンとしまくった。結局、それについては何も返さなかった。

 さらに、応答してくれたことに対するお礼も書けない。やはり文章を汚してしまうから。

 それらが重なり、やがて「申し訳なさ」のような感情が大きくなった。

 この上、ほかの人が書いた部分を消したり修正するのにはかなりの勇気がいる。本当に消していいのか、この修正でよいのか。さらに、まちがって消しちゃったらどうしよう、などと思いながら追記するのもしんどかった。

 次第にscrapboxを触るのがつらくなった。かくして私は個人ページすら使わなくなってしまったのである。

結論

 私にとって、好き勝手に書けるブログのほうが合っている。

 ブログなら否定的なコメントを受けたところで、私の文章そのものが勝手に消されたり修正されることはない。なので安心して書ける。まちがいが指摘されたときも、自分の思うように修正できる。まちがいをあえて残して打ち消し線で修正するのか、それとも文章を消してあたらしい文章にするのか。そういったことを自分で決めて書ける。ようするに、ブログのコメントは提案であって修正ではない。だからブログのコメントは嬉しいものであっても、scrapboxの修正は恐ろしいものに感じたのだろう。

分析

私は編集されたくない

 私は自分の書いたことを勝手に編集されるのが嫌なのだと思う。

 なぜ嫌なのか考えてみた。自分の成果が消されうるから嫌なのだと思う。

 私には文章力がない。駄文しか書けない。もっとわかりやすい文章を書ける人たちがたくさんいる。もっと要点をみつけるのがうまい人たちがいる。的確に言語化できる人たちがいる。そんな彼らに、私の文章は侵食されてしまう。つまり、能力のない私は、能力がある彼らに成果物を乗っ取られてしまうのだ。駄文しか書けない私に存在価値はない。修正されることは、私の存在価値のなさの証明である。それがつらくて恐いのではないだろうか。

 ナンバーワンしか認められない世界のように感じた。それは私のようなザコにはつらい。エンジョイ勢は駆逐され、ガチ勢しか存在をゆるされない閉鎖社会。そんな息苦しさを感じる。

 これはおかしなことである。頭ではわかっている。理屈ではわかっている。

 駄文は成果物ではない。何を書いているのかわからなかったら意味がない。それをわかるように書き直してくれるなら、そのほうがよいはずである。さらに、その添削をもって学び、己の文章力をあげればよいはずだ。それはありがたいことであって、恐れ忌み嫌うことではないはずである。理屈ではそのとおりだ。

 ただ、それはブログのコメントでもできるはずだ。べつに私の書いた駄文を抹消しなくたって、指摘はできるはずなのだ。たのむ、ザコの居場所を奪わないでくれ。そんなゴミ駄文でも、俺ががんばって書いたものなんだ。消さないでくれぇ。

 無様に泣き叫び、血涙を流して土下座し懇願する。そんな負け犬な自分のビジョンを否が応でも意識せざるを得ない。それがつらい。

弱さを認められない私

 それでも私は「とにかくやってみる」の精神で書いた。内容はともかく、クオリティは度外視して、アウトプットしたことそれ自体をもって成果としている。それだけでも私にとっては大変なことであり、すばらしいことなのだ。そう自画自賛しないとやってられないほど低能なのだ。

 そんな私にとって、さらに上にいる者たちに修正されることは「お前の駄文はゴミだ」と言われるようなもの。とてもつらい。それが事実であるからこそ、なおさらつらい。認めたくない。

 「私はカスである」という真実をつきつけられる。scrapboxをつうじて人に修正されるということは、自分を否定されるということだ。人に否定されるところまではいいのだが、自分自身でそれを認めることがつらい。それが嘘ならよかった。けれど、自分自身でもそれが正しい事実だと理解してしまっている。だからこそ否定しようがなく、逃げ道がない。自分を否定することから逃げられない。その自己否定がたまらなくつらい。

 学ぶことは楽しい。知らないことを知れるのは楽しい。できなかったことができるようになるのは嬉しい。私にだってそんな気持ちはある。それでも「こんなことも知らない俺ってやっぱカスだよな」みたいな気持ちはそれ以上に強い。とくに他人に指摘されたとき、つよくそう感じる。

 指摘されるだけならまだいい。私が書いた駄文と、提示された修正案。それらを比較すれば「たしかにそっちのほうがよい」と納得できるし、改善案までくれたのなら、つらくても希望がある。なによりそれを受け入れるかどうかは自分で決めることができる。けれど、自分の書いたものが勝手に消されたり修正されてしまったら? そんな判断・意思決定はできない。

 同意なく消されたらどう思う? 「駄文を書くバカは黙って消えろ」とでも言われているような気分だ。もちろん相手にそんな悪意はないだろう。それどころか親切心であるに違いない。実際、直してくれることで助かることはあるのだから。それに、相手は文章を否定したのであって人格を否定したわけではないはずだ。

 それでも、私は自己決定できず勝手に消されることで「お前は死ね」というメッセージが暗示されているように受け取ってしまうようだ。修正した相手の思いはどうであれ、書いた人に同意なく文章を消すということは、否定・排除の意志があり、それが行動として現れた結果なのだ。ならば文章を消されたという結果をもって、それを書いた私が否定されたと解釈するのは極めて自然だろう。なにより自分自身でも修正された内容のほうがよいと思えてしまったら、もはや否定しようがない。そのときはそれを機会にもっとよい文章をかけるようになろうと思うしかないのである。そのとき同時に生じてしまうつらい感情には、蓋のしようがない。どうしたって自己否定することになる。それがつらいのだ。ムダにセンチメンタルだろう。わかっている。私の心のあり方がおかしいのだ。

 scrapboxはみんなで編集できてしまう。だから私はブログのコメントはよくても、scrapboxの編集は嫌なのだろう。べつに実際に使ってみて、消されたり修正されたわけではない。追記してもらっただけだ。なのでこれは、まだ起こっていない将来に対する想像なのである。被害を訴えているわけでもない。ただの予期不安だ。

 いうまでもなく、これは私の問題であって、scrapboxや編集者の問題ではない。

自己否定スパイラル

 こんなメンタリティだから私はダメなんだ。そう思う。そして、そう感じてしまうことすら、自己否定する根拠になってしまい、それがまたさらなるつらみとなってしまう。バカバカしいと頭でわかっていても、そう感じてしまう。かくして私は自己否定スパイラルからぬけだせない。

 こんなことでつらさを感じることはおかしい。でも、そう感じることは止められるものではない。また、止めようとすることは、止めるべきものである異常なメンタリティであることを認めたも同じであり、それはそんな自分のことを否定していることになる。かといって「こんなメンタリティの自分でいいじゃん」と認めてしまえば、これまで通りつらいまま。どちらにせよ、つらい。

 いつまでも損切りできない。このように生きてきたのだから、これからも同じ様に生きるしかない。そうしないと、これまでの時間がムダになる。これまでの自分が今の自分をつくっている。ならば、これまでの自分を否定することは、今の自分を否定することになってしまう。なので、たとえまちがっていても過去の自分を否定できない。今の自分を守るために。

 おそらく、そんな理論なのだと思う。それが愚かなことなのはわかる。状況は変化するのだから、それにあわせて自分も変化しないと死ぬ。けれど、それができない。変化することができない。まちがっていると理解できているのに、それでも変化できないとは、一体どういうことか。自分でもわからない。ただの恐怖なのか、遺伝子的に保守派なのか。

 どうしたらいいかわからない。おそらく根本的な対策はない。生きることは苦行であると割り切るしかない。そんな救いのない結論がつらい。

さらばscrapbox

 こんなつらい思いをするから、私はscrapboxをやめたのだろう。もはやscrapboxはまったく関係ない。完全に私のメンタリティの問題だ。おなじような人はきっといない。なんの参考にもならないはずだ。

 私だってまさかscrapboxをとおして、こんなふうに自己分析することになるとは思っていなかった。使っていたとき、なんとなくモヤモヤしていた。あのときはどういうことかわからなかった。しばらく時間がたってから、ふと頭に湧いてきた。そしてこの記事に書いた次第である。私は自分で思っていたよりガラスのハートをしているらしい。なんてキモイのだろうか。知りたくなかった。向き合いたくなかった。なんてもん見せてくれんだチクショウ。もうやだ。

 やはり感じることと考えることは両方とも大切だ。ブログを書くことで少しは整理できた。

 私は自分の価値観でもって、どうするか決めたい。自己決定こそが生きることだと思う。私は逃げると決めた。さらばscrapbox。あなたは悪くない。弱い私が悪いのだ。そして、よろしくおねがいします、はてなブログ

存在の証明

 私は強くなろうとか、良くなろうと思えない。弱くても悪くても、私は私の思ったことをそのまま思いたいし、言いたい。それがどれだけクソであっても。たとえ自己否定してつらくなっても。私がまちがっていても。悪は悪のまま、間違ったものは間違ったまま、そこに確固たるものとしてあってほしい。そうでないと存在を証明できない。存在がなければ正しいかどうかも判断できない。だから偽りたくない。偽ってしまったら、存在しないも同じになってしまう。偽らないことで否定されるのはつらいし、つらいのは嫌だ。逃げたい。でも、こんな弱くて悪くてまちがっているのが私なのだ。その事実からは逃げられないし、逃げたくない。

 私はこんなにもこじれ腐っている。認めたくないが、それが現実なのだからしょうがない。嫌だけど、別人になれることもないのだから仕方ない。恥ずかしいし情けないしバカにされるけど、どうしようもない。できることは、こんなクソなのが自分であると認めて突っ走ることだけだ。

 だから私は私が書いたクソ駄文を消さない。私は自分がいかにクソであるかを証明することしかできない。もはやクソを撒き散らすことだけが私の存在意義なのだ。だから駄文が修正されてしまいうるscrapboxに私の居場所はないのである。

対象環境

$ uname -a
Linux raspberrypi 5.4.83-v7l+ #1379 SMP Mon Dec 14 13:11:54 GMT 2020 armv7l GNU/Linux