やってみる

アウトプットすべく己を導くためのブログ。その試行錯誤すらたれ流す。

否定の力を信じろ! 「でも、だって、どうせ」と向き合う者が世界を救う

 嫌われものの三D。でも私は向き合う。だって大切だから後ろ髪をひかれる思いになるんだ。どうせ誰も見向きもしないだろう。でも、私にとっては大切なんだ! だからやる。とことん否定する。妥協しない。たとえ世界中の人々から嫌われようとも。だって、どうせ、一度しかない人生だから。

嫌われている三D「でも、だって、どうせ」

 ググると、ろくでもないことであるかのように書かれている。

  • 使ってはいけない
    • 排除すべき
    • 治すべき
    • 言い換えるべき
    • 人から相手にされなくなる
    • 否定ワードである。否定は悪である
  • 使っている人は性格が悪い
    • かまってちゃん
    • 言い訳が多い
    • 行動しない
    • 現状維持が好きな保守派
    • プライドが高い
    • 人のせいにする
    • 自己中
    • 怒られたくない
    • 敏感
    • 自分に甘い
  • マウンティングに発展する
    • 知識のふりかざし
    • 自慢

三Dを嫌うお前らに物申す

 お前らは何を言っているんだ? でも、だって、どうせを否定するお前らのほうがよっぽど性格悪いだろ。なぜ三Dを使っただけでこんな悪口を言われなきゃいけないんだよ。お前らは三Dを聞かされて不快になったんだろ? 相手の発言を止めたくて悪口で報復したんだろ? そのせいでこちらも不快になるんだよ。同じ穴のむじなじゃねーか。

 典型的な言葉狩りだ。狩るべきは人間なのに。問題は言葉じゃない。だれもが自分の都合で、自分にとって有利になる、自分が気持ち良い言葉を使っているだけだ。どっちが正解とか、そういう話じゃない。どの立場であろうが、ただただ利己である。言葉は悪くない。悪いのは人だ。素直に言えよ、「お前が嫌いだ」って。

 他人から利益を引き出したいビジネスマンは三Dを使わないほうが得だよ、といってるのだと思う。そこまでは理解できる。でも、人格否定までしているのは意味不明。よほど性格が悪いのか、嫌な人に対する八つ当や陰口なのだろう。よくそれで人のことを否定したり、否定するのはいけないことですーとか言えるな。ブーメランすぎるだろ。書いてて恥ずかしくないの?

 毎回思うのだが、どうして否定は悪いことだと断定するの? しかも自分だって否定を否定しているじゃんか。度し難い。自己矛盾してるやん。アホかよ。素直に言えよ。そんな言葉は聞きたくないって。アサーティブに、主語を自分にして自分の気持や考えを語ったらどうなんだ? 人の悪口ばかり言ってないでさ。

 私はちゃんと自分がアホでクズだとわかっているからいいんだよ。「開き直るなよ!」とキレるやつもいるが、残念ながら私はいかに自分がクズカスであるかを知っているだけだ。相手に対して開き直るのではなく、自分と向き合った結果を相手に伝えているだけなのだよ。自己否定できない人にはそれがわからないんだろうな。そういう人とは話にならない。もとより常識が決定的にちがうから。認めたくないことだから。相手の話を聞くつもりがないから。宗教のちがいですわ。

 ありのままに認めるなら、否定も肯定も両方あるのが自然なはずなのにね。

 だれもかれもが自己中で、事実を歪める。もっと素直におそるべき不快な現実を直視したらどうなの? そんなに生きることを否定するのが嫌なの? 嫌なものは嫌。素直にそれを認めたらいいじゃん。嫌なものをムリヤリ好きになろうとか、他人からよく見られようとして言葉を選ぶとか、浅ましいんだよ。もっと素直に生きたらどうなの? お前らは一体だれに忖度しているんだよ。お前の気持ちや考えを、お前の言葉で話せよ。思想の自由すら失って、生きているといえるのか? 自由こそが生であろうに。

 お前がいいたいことくらい、お前の口から言えよ。だれも代わりに言ってくれやしないぞ。それでこそ自分が生きる意味・価値があるってもんじゃないか。ナンバーワンにはなれずとも、オンリーワンにはなれると慰めることができるんじゃないか。

 お前の本心くらい、お前自身で向き合えよ。自分に嘘をついているから人にも嘘をつくことになるんだ。それがクズってことなんだよ。ぜんぶ自分に返ってくるんだよ。悪いのは否定することではなく、嘘をつくことだ。

 お前らが言った否定は悪って考え、絶対に固定観念だろ。自分で考えてないだろ。為政者のプロパガンダとか、声のでかい成功者とか、だれかが言ったから雰囲気に流されて同調して言ってみただけだろ。そうでなきゃおもいっきり自己矛盾しているアホ理論を語るはずがない。ちゃんと自分がアホであることだって表明するはずだ。

 だれにも叩かれないような話? つまらないんだよ。だれかにぶっ叩かれるような穿った思考をたれながせよ。この考えこそ自分そのものだといえるほどに自分を追い込んで見出した、自分だけの真理・答えをさらけだせよ! それこそ私たちがひそかに求めているコンテンツだろうが。それを「くだらねぇw」といってバカにして下にみて嘲笑うのが、お前たちのたっとぶ笑顔や笑いの本質だろうが。きちんと、自分の汚らしさや悪性に目を向けろ。自己否定から逃げるな。自己否定から逃げるために相手の悪口を言っても、一生解決しないぞ。

 こっそりエロ動画みているから秘密主義者になるんだ。くだらない嘘つきになるんだ。自己否定すべきところで他者の悪口をいうようになるんだ。お前らではなく、私自身がそうだから言えるんだよ。お前らも私も同じだ。ざまあみろ。お前らが認めたがらないお前らの悪性を、この私が自爆して巻き添えを食らわせてやったぜ。いい気味だ。私はこんなにもつらい自己否定をしているのだ。お前たちだけ安全地帯でいい気分になんてさせてやらない。死なばもろとも、無差別無理心中じゃ!

 自分がいかに汚いクズであるかをさらけ出せよ。大丈夫だって、皆おんなじだから。方向性はちがっても、みんな同じクズだから。互いに否定しあっているゴミクズでしかないから。自分だけが特別でエライとでも思った? 残念でした、私もあなたも皆クズで〜す。

 大丈夫だって、ちょっと死にたくなるだけだから。痛くない痛くない。痛すぎて痛覚がマヒするから大丈夫。むしろ見せつけられるほうが共感性羞恥で悶え死ぬから。それでいい。死ぬことこそが安息と見つけたり。ちょっとこじらせちゃうだけだから。

 ……みててイラつくよね。死にたくなんてないよね。そりゃあ否定したくもなるよね。そうだよ。だから否定は救いになるんだ。否定を悪者にするのではなく、自己防衛するスキルであるという面だって認められるべきなんだ。どうして一面だけみてムリヤリ否定しようとするんだ。否定することが肯定されたっていいじゃないか! お前たちの思考は不当に偏っている。今、ここで、私が、矯正してやる!

こんなにすごい「でも、だって、どうせ」

 「でも、だって、どうせ」の三Dは、物事を考えたり優先順位を検討するときに、とてつもなく有用なフレームワークである。

三D 価値
でも 否定 別の可能性を提示する
だって 根拠 妥当性を提示する
どうせ 推論 未知の輪郭を提示する

 「でも」は否定である。否定は、提示された命題とは別の可能性を示す。もし否定しなければ、最初に提示された命題がすべてであり、他の選択肢は存在しないものとされてしまう。なぜなら提示されなければ、気づくことはないからだ。気づかないことは、人々にとっては存在せず、決して起こりえないことなのである。気づけなかった時点で可能性は失われる。もしかしたらもっといい方法があったかもしれない。それを検討するためにも、ますは命題に対して、できるだけたくさん否定すべきである。抜け漏れを埋めるために、全方位から否定すべきである。ブレーンストーミングとは逆の形式だ。あまりにもバカげた否定なら、その否定を否定すればいいだけだ。後続の「だって」で論拠を示せば理解も得られる建設的な話になる。よって「でも」を否定するのは未来を閉ざす蛮行だ。「でも」は多様性を生む魔法の言葉である。ダイバーシティを掲げる現代社会に必要不可欠なミームだ。

 「だって」は根拠である。根拠とは思考の経緯でありロジックだ。つまり「だって」と言ったなら、そこには論理がある。論理的に考えることができているのだ。ロジカルシンキングを否定するなど愚の骨頂。人は不明の恐怖におびえる中で、確かなものをいつも求めている。恐怖を平定するロジックが「だって」につまっているのだ。聞かない手はないだろう。人間は考える葦である。人である証たるロジックの「だって」を否定することは人間であることの否定だ。私たちはいつも考え、改善することで、前に進むのだ。そのために「だって」の根拠が必要なのは明らかだ。

 「どうせ」は推論である。私たちはだれも未来を知らない。だから推測するしかない。それは簡単なことではないのだ。それでもどうにか考え出したのが推論である。きっとこうなるだろう。その未来予測が「どうせ」なのだ。グローバル経済社会は先物取引で成り立っている。企業は株式会社であり、投資家が未来を推測することで投資し、その投資を元手にして営業することで世の中が回っている。いわば推論こそが天下の回りものなのだ。推論を否定することは社会の否定である。人類史の頂点である現代社会の根幹を否定して一体なにになる? もし本当に前向きでポジティブならば、否定すらも生産の材料にするはずだ。否定することを否定するなど、否定されることへの耐性がない弱者の怠慢だ。

 私たちは否定されて喜ぶべきだ。建設的な話になるヒントが散りばめられたと歓迎すべきなのだ。「でも、だって、どうせ」の三Dこそ、人が生産的に活動する最強のフレームワークだ。

現代における七つの大罪

 否定を忘れた私たち現代人の、七つの大罪

  1. 肯定
  2. ポジティブ
  3. スポーツ
  4. かね
  5. 化石燃料

 たかが人間の感情ごときが罪に君臨できる時代など、とうに過ぎ去っている。甘えるな。私たちはもっと重い罪を背負っている。その現実から目をそらしてはならない。自己否定が怖いからといって、安易な自己肯定に流れたら、たちどころに自己欺瞞となるだろう。それは社会を腐らせ、地球を汚染し、命を終わらせる。

 スポーツで政治から人々の目をそらそうとするのも悪であり罪だ。私たちは政治を、権力を、否定すべきなのである。否定できている間は健全な政治であれるだろう。ヤジを排除することがいかに不健全かつ危険であるかは言うまでもない。オリンピックなる事業で税金を浪費し、コロナを蔓延させる罪は筆舌に尽くしがたい。スポーツは罪だ。

 私たち人間こそが原罪である。罪を罪だと思えるうちはまだいいが、罪から逃れようとするのだから、もっとも罪深い者である。自分が生きるために食べるものすら、他人に殺させる。それも無自覚に。罪の意識はない。それどころか価格の高さに舌打ちすらしてみせる。この命への冒涜こそ大罪であり、罪の自覚のなさこそが最大の禁忌にして原罪、犯罪である。

 かねは未来を食いつぶす闇である。国債の発行により借金を子孫たちに押し付ける。それが許されるものだから、自分たちが豪遊するために借金を重ねる。政治家が銀座で遊んだツケは自分で払わず、子孫に払わせるのだから、怠慢であることに強欲な色欲だ。罪の数をかぞえたら七つで済むはずがない。未来を奪ってしまえる金というしくみは罪であり悪だ。

 核、化石燃料現代社会生活の礎であり、この地球を汚染する爆弾だ。人間は地球に寄生するゴミムシである。自分たちが楽をして生きるために地球を汚し、その負債を子孫たちに押し付けている。子どもたちのために、と嘘をついているのが尚更にたちが悪い。反吐がでるプロパガンダだ。

 これらの真実から目をそむけ、自らの罪を「成功」だの「進歩」だの「成長」だのと自画自賛し、ポジティブに肯定する。これほどの罪があるだろうか。悪は悪、罪は罪、と認めるべきだ。自己否定だけが正しい真実である。人間社会がいかに欺瞞にみちているか。真実をみきわめるには、否定の力がいる。持続可能社会を実現するには、自己否定が必要なのだ。

 SGDsは17の目標を掲げているが、そんな大層で実現するつもりなどさらさらない欺瞞にみちた大義名分など、捨て置くべきだ。そんなかっこいい、立派な看板をたてて、自分をさもすごい人間にみせかけようと新たな自己欺瞞に手を染める前に。私たちが本当にすべきことがある。たったひとつ。たったひとつだ。それは自己否定である。

 自分たちを肯定的な存在にみせかけようとする前に、事実のまま悪辣さを並べ立てて否定しつくすべきだ。改善は否定をしたあとからやってくる。怠慢は肯定したあとからやってくる。律するなら否定せよ。己を律するなら己を否定せよ。

 目を覚ませ。

 いつわりの肯定より、まことの否定をもとめよ。

私たちは否定することで生きている

 私たちは否定することで生きていることがおわかりいただけただろうか。もし「否定することは悪いことだ」と思っているなら、それはプロパガンダであり悪のミームである。否定されたくない人々が、その機会をなくすために放った偽りのイディオムだ。

 否定はこんなにもすばらしい。その事実を、その根拠を、今こそ直視したまえ。自己否定におびえる己の弱さを直視せよ。

 私たち日本人はネガティブであり否定が大の得意だ。その強みを活かせば、世界で類をみない独自のダークヒーローになれる。だから私たちは日頃から徹底的にネガティブであり「でも、だって、どうせ」を連発したほうがよい。それを文書化し、可視化することで、隠れた願望、抑圧された目的、人生において最も大切な、自分にとっての答えがみつかるだろう。さらに、それを阻む邪魔者たちもすぐに見つけられる。敵がはっきりすれば、必然的にその対策もみつかる。敵の特性をとっかかりに対抗策を講じればよいのだ。

 未来を切り開くのは否定の力だ。それに対して現実をみない虚無の肯定は無力である。否定の力こそが明日をつかむ。否定の力を信じるのだ。