やってみる

アウトプットすべく己を導くためのブログ。その試行錯誤すらたれ流す。

安倍晋三射殺事件について

 お悔やみ申し上げます。法治国家で起こったこととは信じがたい。個人的には、法で裁けぬ悪を裁いてくれたと思う。起こるべくして起きたのだろう。

 その根は深いらしい。なんでも統一教会というヤバイ反社組織を操り人から搾取する安倍晋三に恨みを持っていたとのこと。安倍晋三の言動から詐欺師かヤバイ宗教の信者であろうとは思っていたが、やはりロクでもないことをしていたらしい。関係する組織を暴露し徹底的に叩いてほしい。

 きっとほかの政治家や司法関係者たちも結託し、庶民たちを牛耳っているに違いない。だから安倍晋三を裁くつもりがないのだろう。これならコナンに出てくる黒の組織のほうがずっと可愛い。

 何はともあれ、よくやってくれたと言いたい。

法で裁けぬ悪を裁いてくれた

 これは安倍晋三が悪い。悪いのは安倍晋三であって襲撃者は被害者。事実関係はよく知らないが、とりあえずそう思っておく。何も知らなくても、とにかく権力者が悪いと決めつけておくくらいでちょうどいいだろう。死人に鞭打つ行為はいい気分ではないが、かといって不当に美化することはもっと避けたい。

 政教分離三権分立、民主主義。すべて安倍晋三が破壊したようにみえた。彼の独裁、専制政治に敵意をもつ者は多かったろう。安倍氏と同じような人はほかにもたくさんいるのだろうが、彼の奇行は目立ちすぎた。

「テロは許さない」という詭弁

 為政者たちによる責任転嫁だと思う。

 テロは許さないのに、独裁は許すのか? 独裁のほうがよほど多くの人々から多くのものを奪うというのに? それが政治というなら、私は政治や宗教を許さない。独裁、支配、搾取を許さない。

 むしろこれは民主主義をとりもどすために必要な戦いだろう。聞く耳をもたず、話をそらし、責任転嫁し、庶民から搾取しつづける。こんな者を許すほうが、よほど民主主義に反するテロにもまさる侵略行為だ。絶対に許してはいけない。

悪いのは私たち自身

 もっといえば、だれかのせいにするのではなく、自分の怠惰を糾弾すべきだ。己を叩き律し正すべきだ。他人を許さないことに力を注ぐより、自分に何ができるのかに力を注ぐべき。そのほうがはるかに健全で建設的。

「テロは許さない」というヘイトスピーチ

 この事件は安倍晋三の暴挙を許し続けた私たちの怠慢が招いた事態だ。政治家たちが安倍晋三の暴走を止められなかったことだって大きな原因のひとつだろう。司法でさえその悪事を裁かなかった。なのに自分たちの責任には言及せず、射殺という事実だけをもって「民主主義への挑発だ」などと襲撃者に敵意をむけさせ煽り立てるのはヘイトスピーチと言わざるを得ない。

 おおかた、そうして愚民どもを扇動し、自分たちの肉壁にしようという算段なのだろう。そんなヘイトスピーチを社会的立場のある人たちが公共のメディアを通じて言い放つことのほうがよほど脅威だと思う。人殺しのゲームを危険視するのに、こうしたヘイトスピーチの悪性を叫ばないのは、あまりに偏りすぎている。その偏りは明らかに人為的で作為的だ。

 他人を悪者に仕立て上げて自己正当化するのは楽だし気持ちいい。私もよくやっている。今もやっている。けれどその悪性についても自分自身できちんと認め、伝えるべきだ。自分だけは正しいとかいうのが一番ヤバイ。責任転嫁しつづけた甘えが、こうした事態の引き金になったことを理解すべきだ。

甘え

 皆が皆、責任転嫁しつづけてきた結果、今の腐った世の中になっている。自分自身だってまちがいなくその一員。群れてその罪を薄めようとしているのだろう。特定の少数に罪をなすりつけて自分は罪から逃れようとする。「私は悪くない。悪いのはあいつだ」という体裁にすることで犠牲を最小限にしようとする社会的生存戦略なのだろう。イジメの構図と同じ。

 天皇を象徴として奉るように、特定の個人を犯罪者とすることで責任転嫁し自分を守る。生物として利己的になるのは理解できるものの、反吐が出る。虫唾が走る。悪者だけが生き残る。改善しないどころか、悪化しつづける。

 こうした自己保身からくる責任転嫁によって犠牲者をつくりだそうとするサガこそが叩くべき悪だ。それは私たちの中にある。叩くべきは自分自身だ。他人に責任転嫁し、甘えなければ立っていられない自分の弱さを矯正すべきだ。完全には不可能かもしれないが、少しでもマシにしようと試みるべきだ。

 人に罪をなすりつけ責任転嫁する弱い自分自身こそが悪である。正すためには自己否定こそが必要だ。その痛みから逃れようとし、人に罪をなすりつける甘えこそ、私たちが真に叩くべき悪だ。

民意のあらわれ

 この事件は民意のあらわれだ。まともな人間が、ふつうに暮らすために、戦わなければならない。そんな世の中になってしまった。政治家たちのせいで。そう思わざるを得ないようなことばかり起こっている。一方的な支配の結果、負担がすべて民に集中する。言葉さえ聞く耳をもたないなら、実力行使しかない。追い詰められた結果だろう。残念でならない。

 私にはたまたま、そこまでの境遇もなく強い意思もなかった。が、きちんと向き合い、おかしいものはおかしいと言わねばならなかった。テロに屈してはならないのではなく、権威に屈してはならなかった。支配に甘んじてはならない。独裁を許してはならない。さもなくば、こんな痛ましい事件になってしまう。

 これは今まで向き合わなかった私たちの責任だ。他人のせいにして終わらせることは許されない。犠牲を強いるやり方では、同じことの繰り返しだ。

 支配vs自由。これまでずっとそうしてきたように、今回もそうなのだろう。きっとこれからも繰り返すにちがいない。かといって諦めたらそこで終わりだ。

 自分のしてきたことは自分自身に返ってくる。因果応報。ならば自分がなすべきことは悪事でなく善行であるべきだ。

 とはいえ混沌の中、自分にできることなど極わずかだろう。それでも自分で考えて行うしかない。

いままでのツケ

 アベノミクスやら特定の企業や団体を優遇するなどして、大勢の人々から奪い、日本の民主主義を奪った罪は重い。こうした暴挙を今まで政治で止めることができなかった結果だろう。なのに彼ら政治家は、自分たちの罪について一切言及しない。それどころか、さも正しいことかのようにヘイトスピーチかまして責任転嫁する始末。

 今まで政治のツケを民におしつけ、罰層強化という形しかできなかった彼らだ。まさにそうした責任転嫁が、この事件の原因であるというのに。まったく反省するつもりがないらしい。軽蔑を禁じ得ない。

歪んだ民主主義を説く悪

 もしこれを、襲撃者ひとりが悪い、という形で終わらせてしまうなら、それは日本国民としてあまりに無責任だと思う。自分にとばっちりが来るのを避けるため、善人ぶって「テロは許さない」などといい、襲撃者ひとりを悪者にするなら、それは集団リンチであり虐殺だ。

 権威を作り出すため統一教会を利用し、人々を搾取しつづける彼らは、そんな自分を守るため、民主主義を人質にとったのだ。権威主義の彼らの口からこんな暴言が履き散らかされることが許しがたい。

 もしそれが本当に民主主義というなら、私はそんな民主主義をも否定する。それは自己保身したがる連中の群れだ。少数弱者さえ助けようとせず、彼らから搾取し続けるなど。ただ自分が助かりたいがために犠牲者を求める。今と変わらぬ安心を得るために少数弱者を切り捨てる。そんな人間たちと一緒にいるなど私は御免こうむる。そんな社会になど参加したくない。そんな人間になりたくない。権威主義の差別思想がまるだしで反吐が出る。

 数の暴力でふつうに生きたいだけの人を追い詰めるような社会・秩序など、すでに社会として成り立っていない。それは侵略であり略奪だ。人が人を一方的に支配する悪は許さない。それは人のためにならない。天は人の上に人を作らず。情けは人のためならず。人は人のためになることを善とよぶ。自分のしたことは自分に返ってくる。いつまで他人に犠牲を強いるのか。自分に返ってきても人のせいにしていたら、いつまでたっても何も学べず変わらない。

 これは人々を支配しようとする強欲な悪の枢軸たちと、ただふつうに生きたいだけの弱者たちの戦いなのだろう。政治だけではどうにもできないのだろう。彼らに丸投げし、知らんぷりを決め込んできた私たちの責任でもある。そこから目をそらし、他人のせいにしつづけるかぎり、絶対に改善されることはない。文句を言う資格もない。生きる資格もない。

 自分だって悪い。ただその一点を認めないとはじまらない。いいかげん、向き合うべきだろう。蓋をしてきた臭いものに。自分の卑怯さを認めるべきだ。

これから政治・宗教とどう向き合うべきか

 何を信じるかは人の勝手だし、どうしようもない。他人のことはどうにもできないから、自分がこの件から何を感じ、考え、学ぶか。そこだけに注力したい。

 結局、すべての物事は自分を高めるために利用するのがベスト。他人を支配し搾取しようとしてもロクな結果にならない。他人に負担をおしつけても、そのストレスはめぐりめぐって自分に向かう。恨みを買って破滅する。世の中はつながっているし、人はつながっている。だからこそ悪事ではなく善行に力を注ぐべきだ。だれかのためではなく、自分のために。それがやがて、だれかのためになるはずだ。

 ごくふつうでまっとうな考え。とっくの昔に出ているはずの答え。あまりにもバカバカしくて、いつしか私たちが置き去りにしていた真理。今一度思い出し、正面から向き合い、各自で答えを出すべきなのだろう。

 となると、これは自分との戦いともいえる。政治だの宗教だのは他人のやることにすぎない。それも無関係ではないものの、最重要は自分自身のあり方だ。とはいえ、自分の都合などおかまいなしに、むこうの都合でやってくるわけで。こちらはそれに対する心構えや準備が必要だろう。

ヤバイ連中

 統一教会やら創価学会やら、悪名高い宗教団体がある。ずっと昔から彼らの悪事は問題になっていた。さまざまな事件の裏には彼らの存在があるのに、それは報道されない。世にはびこる真の悪。彼らは人々を騙し脅迫して搾取する。こうした者たちとは徹底的に戦わねばならないのだろう。

 自分自身の内なる悪と戦い、さらに自分の外にいる80億の悪と戦う。最後に残るのは何か。

 できることなら、この機に彼ら政治家たちの裏にいる組織をあらいだし、すべて潰してほしい。けれど彼らの支援者であろうから、そんなことは絶対にしないだろう。それどころか、詳細が報道されることもあるまい。そして、私にそれらを遂行する力もやる気も勇気もない。どうしたものか。

 政治・宗教・マスコミ・芸能・スポーツ・大手企業。こうしたものたちは反社かそれとつながりを持つ者たちであろう。ミーハーな文化はすべて反社に毒されており、それに傾倒することは彼らに与することと同義。これらとは距離をとるのが賢明か。もとから嫌いだが、改めて距離を置くと決めた。

 そして時には戦わねばならないのだろう。そんなことをしたくはないが、そのまともさを弱みとして付け入ってくるならば、玉砕覚悟で戦わねばならない。できるかどうかはともかく、いざというときに一矢報えるよう、自分の正義を貫けるよう、その覚悟を決め、行動できるようにしたほうがいいだろう。

 もう、ふつうに生きることはできないのかもしれない。そもそもふつうが何かわからないが。

 なにが起こるかわからない混迷の時代。やはり信じるべきは自分自身だけだと強く思う。