お題「#この1年の変化」。コロナによって大きく人生観がかわった。自分と向き合い、正しく現実を認識できるようになってきた。
好きに生きることへの罪悪感があった
圧力
日本には「世のため人のために働け」という無言の圧力がある。「働く」という字は人のために動くということだという人もいる。「誰かの役に立て」など似たような言葉もある。否定形でいうなら「人に迷惑をかけるな」だ。ありふれた言葉だろう。
私が死んだ時期にには「24時間働けますか?」という圧迫フレーズもあった。たとえ日付がかわる頃に帰る毎日だとしても常に「え、私の労働時間低すぎ?!」と忖度させるに十分だ。ドーピングしてでも働かねば社会から居場所がなくなって死ぬ。まさに恐怖政治である。
個人主義が浸透してからは「挑戦すべき」「成長すべき」だろうか。ブラックの隠れ蓑として自己責任を負わせる風潮だ。さらに直近ではストレスフル社会でなお働かせるべく「自己肯定感を持て」とか「アンガーマネジメントで自分の怒りを沈めろ」とか「人を動かす力で利益を得ろ」などという圧力がかかっている。
時代にあわせて言葉をかえるが同じだ。つねに人を使い潰そうとする圧力がかかっている。
罪悪感
このように「他人のため」「社会のため」「誰かのため」に自分を蔑ろにして馬車馬のように働くのが当然だったわけだ。生理現象すら抑圧させようとするのだからイカれている。こんなことを続けるとどうなるか。いつのまにか「自分のため」に罪悪感をいだくようになってしまう。
そんな中でコロナというトラブルが突如まき起こった。
コロナで顕になった悪
政府や権力者の悪行や無能さが顕になった。貧困化による右傾化といわれていたが、コロナによってより顕著になった。
政府はGoToでコロナを蔓延させたにもかかわらず、過ちを認めなかった。それどころか、責任を民に押し付けた。罰と義務を課すという形で。
人への幻想がぶち殺された
「人は素晴らしい存在のはず」という漠然とした肯定感があった。しかし、知れば知るほどクズだと思い知らされる。何度も擁護しようとしてきたがもうムリだ。どうしてこんなヤツらの指図を受けねばならないんだと反感をもつことが増えていった。
忖度・自己責任論・転嫁・略奪
社会とは他人から奪うシステムである。遅まきながらやっと確信した。本当はわかっていたが、認めたくなかっただけだった。私は、人とは素晴らしいものであってほしかった。そんな幻想が砕け散った1年だった。
人から離れる心
もう人とは関わりたくない。社会とは関わりたくない。
これまでは我慢していたが、命にかかわる事態となった。それによりかつてないほど自立心が高まった。
人から離れて自尊心をとりもどす
人を否定したり不快に思わせるのは悪いことだと思っていた。それを理由に人のいうことを断ってはいけないと思っていたし、嫌なことも断れなかった。人のいうことは聞くべきだと思っていた。自分が思うことは間違いであり、なにか問題があっても自分が悪いと思っていた。
しかしコロナの件で人の悪辣さを直視する機会に恵まれた。こんな連中の指図で奪われ殺されたら後悔すると確信できた。他人のいうことはそいつ自身の都合でしかない。どいつもこいつも自分本位。ならなぜ私だけ他人を慮らねばならない? 奪われる一方ではないか。かくして他人の悪性に目を背けなくなった。すると不当に自己否定することから解放されたのだ。私は私のままでいいと思えるようになった。むしろ、自分のことは自分で決めねばならない。
高まる自立心
「他人と関わらない=自分がやる」
できることには限度がある。完全に独りだけで生きることはできない。せいぜい病院にいかず筋トレなどで自分の健康を自分で守るようにしたとか、家庭菜園で野菜をつくって自分の食べる分を少しでも自分でつくるとか、その程度だ。それでも1年間つづいた。
自分で感じ、考え、決め、行う。
そうして1年を過ごすうちに、自信と誇りが身についた。
他人とかかずらう時間がいかにムダで有害だったか思い知った。
そうか、社会に参加しなくていいんだ。むしろ加担しないほうが良いいんだ。それどころか戦わねばいけなかったんだ。それがはっきりわかった。私の人生は私が決める。騙しごまかす人生よりずっと気持ちいい。現実を直視し、自分と向き合った1年だった。