やってみる

アウトプットすべく己を導くためのブログ。その試行錯誤すらたれ流す。

100万PV突破! 『やってみる』を5年間つづけた結果

 なんと本ブログ、アクセス解析をみたら100万PV突破してました!

証拠

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 だいたい1日に500〜1000PVあるみたい。ブログ投稿日数が2058日と書いてある。それを100万PVで割ると1日あたりの平均PVが算出できる。約485。まあこの5年間を通して、毎日500PVくらいだったということだろう。

100万PV÷2058日=485PV/日

 2016年6月頃にこのブログを開設して6年目。いつの間にか私もミリオン・ブロガーになっていました。これもひとえに皆様のおかげです。ありがとうございました!

所感

 このブログは私の個人メモです。成果主義の波に煽られて何かアウトプットし生産せねば私に価値はなく死ぬべき個体なんだ、という結論になってしまいます。その無慈悲なる強迫観念に襲われて始めました。あれからまだ5年程しか経っていないにもかかわらず、世の中はまったく別世界になってしまいましたね。地球環境の悪化が深刻化して世界各地で異常気象がおきたり、コロナが蔓延してパンデミックになったり、ロシアが戦争をはじめたり。一体、この先どうなってしまうのでしょうか。

 日記なんて同じことをダラダラ書くだけで何の意味もない。そう思っていた時期が私にもありました。けれどこの激動の時代を生きていると、今と同じ時はもう二度とこないのだと実感します。社会の常識なんてあっという間に壊れます。それに従わされて生きていても、辛いことばかりでした。ロスジェネとして社会の供物となり犠牲になった結果ひきこもりとなった私は、それが最もわかる者の一人だと自負しています。そして今、権力者たちがメディアや暴力をもって人民を支配しようとその圧力を強めています。もう対岸の火事ではないのです。ネットの情報に踊らされているだけではないのです。圧倒的な現実として自分たちの生活を徐々に、しかし確実に蝕んでいるのです。とくにコロナの件で、いつ死んでもおかしくないと思うようになりました。そんな中で私はせめて好きなことをやりたいし、言いたいと思うようになりました。

 これから言論弾圧が強くなるでしょう。権力者に歯向かうようなことをいう者は逮捕されるかもしれません。日本でも安倍晋三にヤジを飛ばしただけで警察に捕まり暴行されます。現在の経済社会でさえ、金や権力をもっている者に忖度した情報が流れるようになっています。今のメディアの偏向報道をみても、権力者の思惑に沿っているようにしか見えません。私はその不自由さや窮屈さが我慢なりません。一方的に支配しようとしたがる人々ばかりにみえて、だれのことも信用できません。きっと社会はそうして壊れていくのだと思います。今の社会にないものは金でも人でも愛でもなく、最低限の信用だと思います。

 今の世の中は嘘まみれです。ビジネスと称して人を騙して己の利益とする。それが社会正義であるという合意が形成されているのが世界経済です。そのための手法が本として売れているし、ビジネスマナーや常識にすらなっているのです。そんな人類に失望するのは当然でしょう。そんな人々に不信感をもつのは自然なことです。
 日々、広告をみて、なんとかして人を騙してやろうとあの手この手を使っているのをみて、軽蔑します。税込価格を小さくして安く見せかけようとしたり、自動車のCMで自動運転の警告をできるだけ読ませたくないからといって、白の背景に白っぽい字で読めないようにしたり。ロールパンの量を小さく少なく減らしたことを、ビニール袋を小さくしてゴミを減らし地球温暖化に貢献した運動であると論点をすりかえて善人ぶったり。そうした小さな欺瞞が積み重なり、やがて人間不信になるのです。ひいてはニュースになるような事件につながるのではないでしょうか。それがさらに不信感を強めるのです。そうなると、もはやそれが現実となります。他人から身を守らねば生きていけない世の中なのです。

 世の中のことはもうどうにもなりません。自分は自分らしく、小さく自分のことだけをみることにしましょう。

 だれかに従わされるばかりの人生の果てに使い捨てられた。そんな経験をしたとあれば、人のことも自分自身のことも信じられません。自分を信じられない人間の目を通してみえるものは、すべて信じることができない疑わしいものになるでしょう。

 自分や人を信じて次の一手を打つべく動けるようになるためにはどうすればいいか。それは自分の好きなことをすることです。好きなことをするためには自由でなければなりません。自分がどうするかは自分で決める。自己決定するのが自由であり、生きることです。人は自由であるとき、人になれるのだと思います。人を人だと理解できるようになるのです。人を人とも思わず使い潰す現代社会が、今、振り返らねばならない人の現実です。

 好きなことをする。きっとそれが再び人をつなぐ鍵になるでしょう。

好きな人が
好きな人と
好きな事を
好きな時に
好きな分だけ
好きな様に
すればいい

 人の自由を認めず、支配しようとするなら、人は争うことになるでしょう。人はエゴにより動くものだから。それは人の欲望と利益をベースとした現代社会人ならだれもが理解できるはずです。ならば認めざるをえないでしょう。私たちは好きにするしかないのです。好きにした結果が、今の有様です。逃れようのない現実です。

 自由には責任がつきものといいます。では、だれが責任を負うのですか。自分が自由にした責任は、自分が負うのが筋です。けれど、自己中な現代人たちのつくる世の中は、そうはなっていません。なにせ自分の利益を追求するなら、自分は自由にしつつ、その責任はほかのだれかに背負わせねば儲かりません。たとえば国会議員が銀座で遊んだ対価は、国債として民や子孫に支払わせます。電気で楽した生活によって生じた放射能物質という負債の始末は、未来の子孫たちに丸投げします。

 こんな人間たちを信じることができるでしょうか? すばらしい存在だと称賛できますか? できない。できるわけがない。もう他人は信じられなくて当然なのです。責任なんて、他人に負債を押し付ける方便でしかありません。表向きではどうとでも言えますが、それが汚い本性です。それを言わないほうがよほど不誠実です。気づくまで騙そうとしているから言わないのでしょう。そんな汚い連中の言葉に耳を傾けても奪われるだけです。ならばせめて、自分は自分の自由を手にしようではありませんか。自律した人生を送ろうではありませんか。そのためにできることをすればいいのです。それはなにか。

 やってみる。とにかく、やってみる。手探りで、試行錯誤する。まちがっても、失敗しても、やってみる。自由とは積み重ねです。私は私の自由によって行ったことをブログに記録します。このブログは私の自由の証です。大いに自由に、好き勝手に、やりたい放題、言いたい放題してやります。私は死ぬまで『やってみる』を続けたいと思います。