やってみる

アウトプットすべく己を導くためのブログ。その試行錯誤すらたれ流す。

インフレする本当の理由

 物価高が止まらない。なぜインフレし続けるのか。誰も言わない真実を話そう。

 人に価値が失くなったからだ。人の仕事に価値が失くなったからだ。それと交換するカネにも価値が失くなった。

 カネの本質は信用だ。人に信用がなくなったからカネの価値がなくなった。カネは人の仕事と交換する。人の仕事が信用できなくなったからカネに価値がなくなったのだ。

 カネの価値は、人が人のために働くことで生まれる。しかし現代社会は世のため人のためと称して騙し取っている。人の仕事に価値がなくなったから、カネの価値もなくなった。これがインフレの真相である。

 これを言わないのは、人々から避けられ、儲ける機会を失うからである。自分たちの経済活動の実態が価値なき詐欺であると暴かれることを恐れ、嫌煙されてしまうからだ。それは就職の機会もビジネスチャンスも失うことになる。生存権をなくして死ぬ。だから言わないのだ。

 人々は自分が生きるため儲けるために正しい真実を語らない。はたしてそんな欺瞞に満ちた人生に価値はあるのか? その答えが数値化されて表れている。すなわちインフレだ。

 結論。お前らには価値がない。

価値なきカネ

 カネの本質は信用だ。信用がなくなればただのゴミである。商品やサービスと交換するほどの価値がない紙クズだ。

 では、私たちは信用しているだろうか? カネを発行する国や銀行を。それを流通させる企業を。そこで働く人々を。その仕事ぶりを。信用しているか? 価値があると思うか?

 国は社会保障を縮小しながら汚職三昧。犯罪者なのに逮捕もされない。企業は国に媚びへつらい便宜の見返りに献金する。平和の祭典たるオリンピックすら汚職の手段にした。公益のために働くべき公務員が、私益のために税金を使い、その力を求めて企業が汚職に加担する。

 国や企業は犯罪組織に成り下がっている。公益を破壊する公害だ。

 もはや国も企業も信用するに値しない、価値なき組織だ。故に国が発行する銀行券にも価値がなくなった。当然の帰結である。

価値なき仕事

 人は金儲けするため仕事と称して偽装や詐欺ばかり働くようになった。

  • 社会保障を縮小させ犯罪しても逮捕されない政治家
  • ありもしないスタップ細胞を主張する科学者
  • 同意なく秘密裏に個人情報を売買する職業斡旋・通信業界
  • 安全基準を偽る自動車産業
  • 材料や期日などを偽る食品業界
  • 消臭業務をせずカネだけ奪い証拠隠滅してたらガス爆発を起こした不動産業界
  • 危険なのに出港を強いて沈没し26人を殺害した観光業界
  • 強姦・薬物・暴行・違法賭博など反社活動をしても逮捕されない芸能・スポーツ業界
  • 有害事象が起きると判明しながらCMしワクチン摂取させ金儲けする国・医療業界

 価値がなくなって当然だ。ゴミしか居ない。消えてくれと願わずに居られない生ゴミ。これでは人に価値を求めるなど絶望的だ。

 公益のために働くべき政治家は汚職や犯罪三昧。それは法律で裁かれることもなく改善されることもない。もはや民主主義どころか法治国家ですらなくなってしまった。社会を保つ体裁さえも取る気がない以上、存在する意義も価値もない。むしろ害悪である。

 どうせ今後も変わらず汚職三昧だ。改善されないから未来にも希望が持てない。希望こそが価値なのに。彼らの悪事が、価値を損ない続ける原因だ。

 企業は商品の改善ではなく、いかにバレないよう巧妙に嘘をつき騙し取るかに尽力する。競争する争点が人から騙し取る所にあるため、価値を損ない続けることになる。

 仕事はカネを得ることが目的になり、ついに人命すら軽視する。人のために行うことは目的でもなければ手段でさえない。人からカネを騙し取る口実にすぎない。人のために行わなくなった仕事は、もはや人にとって価値がないだけではなく、嘘偽りによって騙し取られ殺される苦痛体験だ。

 人にとって、人の仕事は価値も信用もないものに成り下がった。故にそれと交換する銀行券の価値も損なわれた。今後益々インフレし、いくら積んでも価値のない紙クズになるだろう。

 カネの価値は人が人を助ける仕事をするときに生じる。逆に、人が人から奪うとき、その仕事には価値も信用もなくなる。なぜ今、カネに価値がなくなりインフレしているのか。それは私たちの仕事が人の助けにならず、人から騙し取る詐欺に成り下がったからだ。

価値なき社会

 社会に属する価値は社会保障だ。怪我や病気など働けなくなっても他者の力を借りて生きていける。これが社会に属する価値である。

 しかし今、社会に属する価値がなくなりつつある。

 私たちは他者を助けようとしないからだ。社会保障の負担を負えなくなったからだ。その気がなくなったからだ。その余裕がなく、自分が生きるので精一杯だからだ。他人を助けるどころか、他人から搾取しないと自分すら生きられないほど無能だからだ。奪われるより奪う側になるべきと考えるからだ。

 利益を追求した経済社会の末路である。まさか利益を追求していた自分自身が無価値になるとは皮肉な話だ。だが考えてみれば当然である。

 利益とは、負担を他者に押し付け、成果だけは自分が掠め取ることで最大化できる。すなわち経済の合理化とは、略奪の合理化である。

 経済社会は競争を激化する。自分さえよければいい。利己の強い個体だけが生き残る。互いに最後の一人になるまで騙し奪い殺す。

 経済社会に属することで人々は騙し奪い殺し合う。そんな場に価値はあるのか。答えはカネの価値として表れている。

 戦争は経済社会の出した答えだ。戦争はもっとも儲かる活動だ。だから経済社会は戦争することを選んだ。決して終わらせることなく継続することを選んだ。これが私たちの答えだ。はたして価値ある社会か? その答えはカネの価値として数値に表れている。

価値なき人々

 価値ある仕事ができない人々に、価値はあるか?

 私たちは、私たちにとって価値ある仕事をしない者には価値を認めない。

 経済で合理化した社会において、人とは価値ある仕事をすべき装置である。経済の合理化により、人は人から騙し取ることしかしなくなった、価値なき存在に成り下がってしまった。

 私たちは、自分にとって価値ある者しか認められない。ところが、私たち自身が、価値なき存在と言わざるを得ない状態になってしまった。自力で価値を創出できず、他者から奪い取ることでしか生きられない者に、価値はない。そんな人々しか生きられない経済社会や、そこに属する人々には価値がない。

 私たちは価値がない。

価値なき人生

 経済を動かす。そのために人の価値を損なう。本末転倒だ。

 人から騙し取ることでしか生きられない。そんな人生に価値はあるのか?

 自分の価値観が評価されず認められない。他人のために働かねば生存権すら認められない。はたして他人本位な人生に価値はあるか?

価値なき現代人

 地球環境を破壊し、子孫たちに借金を押し付け、自分が生きるのに必要な衣食住を他人にやらせる。それを経済成長などと自画自賛し増長する無能種。こんな現代人に、生きる価値や資格があるのだろうか? 生物としての存在意義や価値はあるか?

 自分のことは自分でやる。これが生物として最低限の能力だろう。しかし経済社会は、自分のことを他人にやらせることで運用している。つまり現代人は、自分のことすら自分でできない無能で無価値な生物に成り下がっている。

 私たちには生きる価値も資格もない。それが自覚できてしまい、カネ価値として数値化されているのでは?

 認めたくない。きっと自分以外の何かが悪いに違いない。アメリカ経済が悪いんだ。時勢が悪いんだ。運が悪いんだ。社会が、政治家が悪いんだ。

 自己否定せず、自己肯定しかしない。自らを悔い改めることなく責任転嫁し続ける。悪を悪と言わず、むしろ悪に迎合する。まさに生きる価値も資格もない動く生ゴミだ。

 生きることすら否定せざるを得ない。それほどまでに無価値である。

やってみる

 このブログのタイトルだ。やってみて、アウトプットし、価値を創出する。それがテーマだ。

 社会にとって価値あるものを提供できなければ生きていけない。だからそのための知識や技術を身につける。そのための「やってみる」だった。

 しかし実際に「やってみる」と、じつはやってみたその体験や時間そのものが楽しく価値あることだった。というより、私自身が楽しくないことなど、やってみる気になれないので、必然的に興味があることだけしかやらなかったのだ。楽しくて当然である。

 当初は強迫観念で始めたことだった。社会の中で生き残るために、社会にとって価値あるものを創出する自分になることが目標だった。まったくもって主体性の欠片もない、受動的で下心に満ちた不純な動機である。

 しかし私は気づいた。それ、やりたくない。

「なんで他人のためにやりたくもないことをやらなきゃいけないの?」
「てか、他人て具体的に誰?」
「顔も名前も知らない社会や他人のために尽くすとか意味わかんない」

 やりたくないことはできなかった。無理やりやっても続かず、やめてしまう。その度に私は私を傷つけた。

「ほらね、やっぱり私ってダメな奴だ」
「こりゃ生きる価値も資格もない死ぬべき個体ですわ」

 と。まったくもって楽しくない時間だった。もう二度とやりたくない。

 改めて問おう。どうすれば「やってみる」ことができる?

 何かをやるためには自分の中に動機がなければできないし、続かない。

 社会や他人の価値観は、私を動かすに値しないものであると気づいた。

 私が行うには、私の動機が必要だ。社会でも他人でもなく、私自身の動機が必要なのだ。当たり前である。当たり前のことに気づいた。そして当たり前の連鎖は真実へと向かう。

離れゆく心

 私が楽しく過ごす。私は嬉しい。でも、そのことに社会や他人は一切の価値を見出さない。なぜなら彼らにとっては何も楽しくないからだ。当然である。私が楽しく過ごすことは、社会や他人にとっては役に立たない無駄であり排除すべき行為だ。一円の価値もない。

 私は楽しく趣味に興じるひとときを過ごしました。さて、あなたはこれにいくら払う? 払わない。一円たりとも払うわけがない。私だって誰かがそんなことを言い出しても払わない。

 社会は私の価値を否定する。ならば私は言わねばならない。そんな社会や他人こそ、私にとっては無価値だ。

 では、私は何を求める? 私の価値はどこにある?

 他人のために自分の人生を費やすのか? それが価値あることか? 社会にとってはそうだろう。でもそれだと、私は社会の一員ではないと言われたも同然である。なにせ私にとっては私のためこそが価値あることだから。なのにその価値を社会や他人は認めない。なら、私はその社会の一員として認められないということだ。

「ふぅん。へぇ。あっそう。じゃあいいよ。それで」

 決別の瞬間である。

 私にとっての価値は、社会には認められない。ならば私にとって、社会に属する価値はない。

 私は私のために生きる。好き勝手にやる。それが私の望みであり価値だ。

――立場は逆転し、価値観は反転する

 社会のためじゃない。他人のためじゃない。彼らの価値観なんてどうでもいい。たとえ彼らにとって私の存在や行為が一円の価値もなかろうと、知ったこっちゃない。それこそ私にとって一円の価値もない。

 ブーメランである。社会や他人たちが私の価値を損ねるとき、私もまた社会や他人の価値を損ねている。深淵を覗く時、深淵もまたこちらを覗いている。他人は自分を映す鏡だ。

私だけの価値

 私にとって大切なのは私だ。だから私は私のためにやってみる。

 社会や他人とって無価値な、だけど私にとって楽しく価値ある時間。そんな時間を過ごすことこそ、一度しかない人生で最も優先して成すべきことだと思っている。

 やってみる。言ってみる。社会や他人に喧嘩を売ってみる。でも大丈夫。どうせこんな所で主張しても、誰も見ていない。どうせ私一人がアレなことを口走っても「ああ、こいつは私にとって無価値な奴だ」と思われるだけだ。

 無関心。それは無価値である。互いに無関心・無価値・無干渉であれば、各自の価値を追求できる。それこそが人生価値の最大化である。

 一人で生きる。それは現代人が価値を取り戻すために必要なことではないだろうか。もし寂しくなったら、その時は他人の価値を再評価できるようになるはず。それまでは一人で生きればいい。どうせ群れたって差別、イジメ、DV、迫害、パワハラ、脅迫、恐喝、暴行、犯罪などするばかりだ。関わらないほうがマシである。

 これ以上、人間のことを嫌いになる前に。人々と縁を切って自分を好きになりたい。さもなくば生きること自体に絶望し、人を嫌悪して「皆死ねばいいのに」としか思えなくなる。

 いくら札束を積まれても関わりたくない。それほど私は社会や他人を負債存在だと思っている。もはや価値とか信用ではない。マイナスの負債である。社会も私をそう思っているに違いない。インフレするのも当然だ。

 カネに価値があると信じているのが理解できない。カネの価値は人が生み出すが、その人間が人から騙し取る者なのだから、価値などなくて当然だ。カネのない、他人のない、社会に強いられない、自分の人生を生きたい。このとき、私は人に価値を見いだせるようになるだろう。

 ここまで失ったものはあまりに多い。

 まだマネーゲームで消耗してるの?
 まだ人の価値を損ない続けるの?
 まだカネに価値があると信じるの?

 私にはもう無理だ。騙して信じ込ませることでしか保てない価値などカルトである。私にはもう人やカネの価値を信じることはできない。ここまで損なわれた以上、それを正しく認識して、私の価値観にもとづいて生きていきたい。正す気のない人々に価値が宿ることはないのだから。

 自分の無価値さを正しく認識し主張する。これをせず偽り続ける限り、人々に価値が宿ることはない。しょせん嘘っぱちの偽物である。私は偽物に価値を見出さない。生きたいから価値があると見せかける偽物に、価値はない。

本物

 なぜインフレするの?

 せめて誠意をもって答えたい。それが残酷であっても。それほどまでに正しい本物がどこにもない。嘘で汚された生に価値はない。だから私は言う。価値ある本物を出す。人の生に価値を取り戻すため、残酷だけど正しい真実を口にする。

 カネに価値がないのは人に価値がないからだ。誰かのせいじゃない。私たちのせいだ。カネに価値がないのではない。私たちに価値がないのだ。

 人を使い潰してカネを動かす。そんな社会や人生に価値があるか? あるわけがない。人のためにならない社会制度に、人が価値を見出すことはない。人が人を大切にしない社会である限り、人はその価値を損ない続ける。人が人を傷つける限り、人は人の価値を損ない続ける。

 私たちは人に失望し価値を失った。産まれてきてよかった。生きるって素晴らしい。そう思えず、産まれてこなければよかった、生きることは苦である、と思わざるを得ないなら。価値などあるはずがない。人が人から奪うばかりだから、人を素晴らしいと思うこともなく、人に対して憎悪するばかりだ。人のためにならない、人から奪う活動をする経済は、人の価値を損ない続ける。

 正しい答えを見つけ、追い詰められたとき、人は真価を発揮する。私はそう信じている。だから逃げない。逸らさない。偽らない。正しい真実を伝える。

 私たちには価値がない。価値ある仕事ができない。だからカネにも価値がなくなった。インフレの本質は私たち自身の無価値さである。

 私たちには価値がない。価値がないのは私たちだ。カネじゃない。責任転嫁するな。道具のせいじゃない。それを使う私たちの問題だ。

 私たちには価値がない。価値ある仕事ができない。人を助ける仕事ができない。私たちは人を助けるという価値ある事ができない無価値どころか負債存在である。これがインフレの真相だ。

 私たちには価値がない。人を助けることに価値を見出せない。なぜなら人は自分から奪う敵だから。人が人に価値を見出さなくなったから、助けることに価値も見出さなくなった。人が人に価値を見出さないから、人を平気で使い潰す。人にとって価値のない加害行為を互いにするようになり、互いの価値を損ない続ける悪循環に陥っている。

 私たちには価値がない。これがインフレの真相だ。私たち自身がインフレの原因である。当然だ。経済は人がなす社会制度だ。それを行う人々に価値がなければ、その行いに価値がなければ、それと交換するカネにも価値はない。私たちは私たち自身を見損なった。それが数値として表れたのがインフレである。

 インフレの原因は何か? 私たちの活動に価値がないことだ。人を騙し人から奪う。この経済活動に価値がないと、他でもない私たち自身が答えを出している。それがインフレの正体だ。

 いつまで気づかぬ振りをする気だ?
 いつまで無関係を装う気だ?
 いつまで責任転嫁する気だ?

 君には失望した。

 私は私を含むすべての人々を、心から軽蔑し、幻滅している。

 インフレとは、人が人に価値を見出せなくなった状態だ。

 インフレする本当の理由?

 お前らに価値がないからだよ。