ある人のブログで気付かされました。
今週のお題で皆のブログを適当に見ていると「マクロの思いやり」という記事を見つけました。これが興味深かったのです。
職場にある皆で食べるお菓子。その最後の一個はなぜか誰も食べずに残るという話です。
興味深い着眼点でした。また、私が人生の中でしたことのない面白い考え方がありました。
最後の一個は皆食べずに残る。言われてみて初めて気付きました。今まで全く気にしたことがなかったのです。もうこの時点で、著者の方は普段から周りをよく見ている人なんだろうなと感心しました。そして同時に、私が如何に周りを見ていないかも気付かされました。
面白かったのは、次の三点です。
- 最後の一個をめぐる気配りに対して名前を付けていること
- 最後の一個を食べることが思い遣りだと考えていること
- その思い遣りをする自分が「大人」だと仰っていたこと
今週のお題が「大人だから」だったのもあるのでしょうが、それで大人と主張する所が面白かったのです。私の中では、最後の一個を食べることと、大人であることの両者がイコールで結ばれるという発想がまったくありませんでした。
なぜ面白いと感じたのか
自分でもよくわかりませんでした。なので考えてみました。
まず、私は最後の一個を見たら、食べずに残す派でした。これ、言われて気付きました。今まで意識したことがなかったのです。無意識で残していました。そのことに気づいて、自分としてはショックでした。ちゃんと意識して生活しているつもりでも、結構無意識の行動って多いのかもしれません。
なぜ、私は最後の一個を残すのか。その理由を考えてみました。
たぶん、罪悪感があるのです。皆で食べる共有財産を、私個人が奪ってしまう。そういう解釈をして、最後の一個を食べることに罪悪感があるから、私は残していたのだと思います。
でもよく考えると、皆が同じ意識で残していたら、腐らせて勿体無いんですよね。もし本当に皆が残すなら、誰かが食べたほうがずっといいわけで。私は食べ物を粗末にするのが大嫌いです。それでも残すのは、なぜだろう?
著者の方は「自分は我慢して誰かのために譲ってあげる」という親切心だと考えているようでした。でも、少なくとも私はそんなことは考えていないはずです。
「私は皆のために残してあげている」などという上から目線になるためには、その共有財産であるお菓子は私のポケットマネーから全財産出して提供した場合だけです。そしてその場合、私には最後の一個を食べることに罪悪感など抱きません。だって自分が身を切って買ったのだから。食べる権利は当然あると自信を持って言えます。
職場のお菓子は給料から天引きだと思うから、自分にも食べる権利はあるけど。厄介なのは皆も同じ条件という所でしょう。
あ、自分が出資したわけでもないお菓子だと「食べて良いのか?」という遠慮が出てしまうのも残してしまう理由になるかも。そういえば、誰が買ったかもわからないお菓子には、手を付けられないことが結構ある。お土産とか、公平に分配されている場合はその限りではないのだけど。その場や人々に慣れるまでは手を付けられない。あったな、そういうこと。今気づいた。私ってそんなふうに思っていたのか。
最後の一個を私が残す、もう一つの理由。
きっと、たぶん、いつか、誰かが、食べるはず。
私はそう考えていたのだと思います。
他人の考えは判りません。でも、他人の数は多いです。確率論的に、そうした無責任な希望的観測によって、他人にある種の責任転嫁をしているような形になっていたのかもしれません。
私は皆の共有財産を奪うような悪い奴じゃない。という社会的な体裁を保つために最後の一個を残していたのではないか。
だとしたら、私はなんと利己的な奴なのでしょうか。自分の社会的立場を守るために食べ物を粗末にするなど、生物として最低です。食べ物は命であり、それを粗末にすることは命を粗末にするも同義なのですから。
もしかすると、私も著者のような方のお世話になっていたのかもしれません。食べれない私の分まで食べてくれていた人がいた。まさか、そんなことに対して感謝の念を抱く余地があったなど、想像もしませんでした。
人として、社会人として、生物として。共有財産である職場にあるお菓子を、はたして誰がいつまでに食べるべきか。最後の一個に遭遇したとき、自分は食べるべきか残すべきか。
たしかに、確たる意志を持って行動する者は、大人と言えます。少なくとも無意識的に、感覚や雰囲気で、曖昧にして他人任せにしている者よりはずっと大人です。
著者の方が言っていた「最後の一個を引き受けてあげている」というのは、皆の罪悪感を食べてあげているという意味もあるのかもしれません。たしかにそれなら皆の為と言えるでしょう。まあ、本当に皆が私のように罪悪感を抱いて食べずに残しているのかは不明だし、著者の方が仰るように皆のために残しているのかもしれませんが。
こう考えると「最後の一個を食べるのは大人の証」というのも理解できます。面白い着眼点でした。
最後のお菓子 The last candy
世界は、私たちに選択を迫っている