今週のお題「大人だから」楽しめること。大人になれない私も考えてみました。
世に言う大人とは
おそらく次のような者を大人と呼ぶのでしょう。
- 二十歳を過ぎた者
- 経済的自立した者
- 精神的自立した者
世に言う大人の楽しみとは
二十歳になったら解禁されるもの全般。すなわち以下。
- 酒
- 賭博
- 女(性)
法律上、成人の定義は二十歳です。この時点をもって上記三つが解禁されます。
飲む、打つ、買う。これが世に言う大人の楽しみという奴なのでしょう。
お題の例
お題では次の例が挙がっていました。
- 温泉で長風呂するのが楽しくなった
- お年玉をあげる側になった
- 一度くらいタバコを吸ってみたくなった
そして『あなたの「大人だから」にまつわること』を書けというのがお題です。
私が見てきた実際の大人
- 子供に八つ当たる
- 子供にマウントを取る
- 子供を利用する
- 子供を扇動する
- 子供に言わせる
- 子供に夢を押し付ける(自己投影する道具)
- 子供から金や労力を巻き上げる
- 嘘を付く
- 見てみぬふりをする
- 知らぬふりをする
- 知っているふりをする
- やってないふりをする
- やっているふりをする
- 嘘をついてはいけませんという嘘をつく
- 力で相手を支配しようとする
大きな子供。それが世の中にいる実際の大人ではないかと思う。
人間だもの。立派な大人もいると思うけど、そんな大した者じゃない。
大人とは、実際の自分よりも大きく見せようとする人です。虚飾者を大人と呼ぶのです。恥ずかしいから自分を大人とは呼びたくありません。そんな印象を「大人」という言葉に持っています。でもこの考えが大人を知らない幼稚さの表れとも思えます。大人とは一体。
私の考え
私は大人ではないと思っています。年齢的にはとっくに大人ですが、中身は子供です。
よって、そもそも今回のお題に投稿する資格もありません。
でも、そんなの関係ねぇ! 子供だから大人のフリして参加してやるもんね。
でも、見た目がオッサンなので、子供と言ったらドン引きされるのは判っています。それくらいの分別が付くのは大人だからでしょうか?
なんだか急に大人の敷居が下がったように感じます。子供の私が考えても幼稚な意見しか出ません。でも実際は大人のはずだから、これが大人の意見でもあるわけで。もう訳わからん。
自分は子供だと思いますが、大人らしい大人に出会ったことはありません。親が一番私の思う大人像に近いかな? どうだろう。人それぞれかな。
誰だって幼稚さは併せ持っているものです。それを受け止めて、うまいこと付き合うなり、距離を取るなり決断できる人こそが大人なのでしょう。
私が思う大人
- 個性
- 自他の区別がつく者
- 好き嫌いが明確である者
- 主語を自分自身にして話せる者
- 他人と距離を置いて関われる者
- 自己決定する者
- 能力
- 手に職を付けている者
- 得意なことがある者
- 苦手なことを避けることができる者
- 社会の中でも上位半数に入る得意技がある者
- 客観性
- 事実確認できる者
- 論理的に説明できる者
- 客観的証拠を提示できる者
- 再現手順を示せる者
- 社会性
- 相手に寄り添える者
- 相手の話を聞き出せる者
- 教え、導く者
- 若者に託し、一線から退く者
- 寛容性
- 思い通りにならない自分・他人・社会・現実を受け止める者
- 己の老衰・死を受け止める者
- 生きることの悪性を認めることができる者
- その上で自分にできることをやる者
一般論では「社会に貢献する人」を大人と呼ぶように思えます。いわゆる経済的自立がその象徴でしょう。ただ、あまりに一面的すぎて雑に感じます。
私の思う大人とは「自分自身を生きる人」です。
大人とは、自分の生き方を、自分の価値観に沿って決める者だと考えます。
世の中には多様な価値観があり、それを知るほど困惑して決めることが困難になります。
大人は自分なりの価値観を説明でき、それに沿って生きている者です。あるいは妥協していたとしても、それを認めることができ、その内容や理由を説明できる者です。その根拠は自身の実体験です。
大人とは、子供の頃にあった無限の可能性を削ぎ落として、自己単一の現実に研磨した者です。得意なことがあり、それに関しては一芸に秀でています。
大人とは、自分のことを熟知している者です。すると自他の区別も必然的に付くようになります。
自分は自分、他人は他人。自他の区別がついており、他人とは一線を保って関わります。自分の思い通りに他人が動かないからと言って切れ散らかしたりはしません。そうなってくれたら儲けもの、程度の認識です。相手に期待して裏切られる痛みを経験的に知っているし、逆に期待されて失望される痛みも知っています。
大人は相手に配慮できます。他人とは、自分には理解できないものを持ちうる者であると知っています。それでも相手は傷つく心を持っていると信じていて、それを避けるために一定の配慮ができます。それが自分自身に返ってくることも知っています。
大人は自分と違う他者とのコミュニケーションを楽しむことができます。互いに欠けた部分があることを想像できるし、相手は自分が持っていないものを持っていると気付くこともできます。そうした違いに気付き、認めることを、喜べます。補い合える可能性に活路を見出す精神的な余裕があります。目的や意義がなくとも違いそのものを楽しめます。違いによる驚きを楽しめます。
大人とはゆとりある余裕を持った者です。
大人は人を動かす術を知っています。山本五十六の格言に集約されています。
やってみせ 言って聞かせて させてみて 誉めてやらねば 人は動かじ
話し合い 耳を傾け 承認し 任せてやらねば 人は育たず
やっている 姿を感謝で 見守って 信頼せねば 人は実らず
相手に寄り添う。相手に向き合う。これほど面倒で困難なことはありません。果たして社会にいる自称社会人の方々の中に、これができる人は一体どれだけいるでしょうか。
自分を守るためにイキり散らすことも時には必要でしょう。それを生暖かく見守れる程度のヤンチャならばまだいいのです。しかし、度を越えたヤンチャにはきっちりお灸を据えねばなりません。果たして自称社会人の方々の中に、これができる人は一体どれだけいるでしょうか。
できない私は子供です。
自分さえ良ければいい。他人に割くリソースはない。また、他人と関わることで生じるリスクを回避したい。よって、他人との関わりを最大限に回避する。あるいは上辺だけの付き合いに終始するか、パワーゲームによるママゴトに適当に付き合うだけ。利害が一致していればそれでいい。
大人とは損得で判断する者だと聞きます。それは「感情を抑えて」という枕詞が付きます。しかし実際の所、その損得は、将来の好き嫌いへの予測です。未来で好きな時間をたくさん過ごせると予想すれば「得」と判断し、未来で嫌な時間をたくさん過ごすと予想すれば「損」と考えます。結局の所、好き嫌いに収束します。あくまで時間軸が今か未来かの違いであり、本質は同じです。
大人とは総合判断する者です。他人とは違う、自分なりの価値観で、自己決定する者です。
本当はもっと欲深いです。でも、圧倒的な現実を前にして諦めます。
大人とは、諦観を持っている者です。執着を徐々に手放すことで、生の苦しみから解き放たれてゆく者です。生への執着を徐々に手放していき、死に至る準備をする者です。
大人とは、寛容な者です。厳しい現実さえも、ありのままの事実を認め、受け入れることができる者です。都合が悪いからと言ってポジティブに無理やり変換しようなどとはしません。不都合な事実さえも受け止める器があります。その苦しみさえも生きているからこそ味わえるものだと知っています。さりとて絶望して何もかも投げ捨てることはしません。自分に出来ることを、どんな小さなことでもいいから探して、それを粛々と行える実直な者です。
大人とは、酸いも甘いも知っている者です。それを受け止める器があり、そこに至る歴史がある者です。相手にもそれがあると想像できる者です。
大人とは、生きることへの自分なりの答えを持っています。あえて答えないというならば、それも答えだと理解できる者です。
大人の楽しみ
そんな私の思う、大人ならではの楽しみとは?
判りません。なにせ私は子供なので。
では、子供の私が思う、大人の楽しみとは?
強いて言うなら、無駄を味わうことでしょうか。
何の意味も価値もない無駄なことをやる。これぞ究極の贅沢。効率や成果を求めるのは貧しい証。無駄なことに全力を注ぐことこそが究極の贅沢であり、人生の楽しみ方だと思います。
ひねくれている自覚はあります。でも、ちゃんと子供だと自覚しているからセーフのはずです。
とある会合に参加する日。予定時刻より早めに出て、わざと脇道に逸れる。事前に調べた最短経路とは違う。何の意味もない無駄な時間や行動をする。そのちょっとした遊びを、自分自身の意志と体で実行に移す。このとき、ニヤッとしてしまう自分がいます。この小さな遊びを様々な所でちょいちょい挟むのが、大人の楽しみです。
地味な上に、ただの危ない奴ですね。もしそんな人を見かけたら、私なら近づきたくありません。まあ、大人だから指を指して笑ったりはしませんけど。ドン引きして避けるだけです。
だからどうした? 私は世にハブられても、この身一つで生き抜いてやる。遊び尽くしてやる。この心意気。自分の社会的立場、人間的信用、将来への安定、あらゆるものをかなぐり捨ててでも、遊びに費やす。この覚悟を持った男の中の男こそ、かっこいい大人であり、そんなバカを楽しむ者こそ、人生を楽しむ大人の姿でしょう。無駄の中から希望を見出す。これが大人の生き様です。
大人とは、孤独を味わい楽しむ者である。