やってみる

アウトプットすべく己を導くためのブログ。その試行錯誤すらたれ流す。

さらば2024年、ようこそ2025年、どうせすぐ2026年

 2024年を振り返り、2025年に向けての思いを綴る。

2024年はどうだった?

 去年のことなんて忘れた。年々、忘れることが増えてきた。中身のない人生なのだろう。

 問題ない。問題しかないから、特別な問題は何一つないのでセーフ。なにもセーフじゃないが、そう思い込むことでしか心を保てないアウトぶりに心がセーフティをかけてる状況。ぜんぜんセーフれてないのが誠に遺憾。政府の怠慢だ。

 きのう何食べた? 覚えてない。これである。もうダメかもしれん。やはり四十路は初老であるという真実。これを肌で実感するこの頃。いつのまにか一年が終わっていた。気づいたらお雑煮を食べていたんだ。

 怖い。時の流れのように記憶が流れ去ってゆく。これは2024年特有の時空間現象に違いない。タイムパトロールが何とかしてくれるはず。だから2025年は大丈夫だ。そうに違いない。

 あとはもう、死ぬまで誤魔化して乗り切るだけだ。衰退の一途なのだから仕方ない。ああ無常。

 成長? ないない。老衰するばかりだよ。人はね、生まれたら死ぬんだ。わかるかい? 真実ってのはね、残酷なんだ。わかるね?

 ポジティブ? ないない。前を向いてもお先真っ暗なんだから、せめて明るかった過去を振り返って……ん? 記憶が……ないだと?!

 落ち着け。忘れるってことは、大したことじゃないってことだよね? イェーイ! レッツ、ポジティブ シンキングゥ! バカ イズ ハッピー ニュー ヒェア!

 年々、世の中に嘘や欺瞞が増えていくのは、老衰している証拠なのだろう。ソースは私。

2025年はどうする?

 先のことは分からない。一寸先は闇。未来予知できたら苦労しない。

 え、抱負? 目標? 知らん。無い。

 私は計画を立てるのが嫌いだ。そうして効率よく働かねば生存権なしという現実から逃げたい。今年も自分に正直に生きたい。ダメ人間として、あるがままの姿を躊躇なく曝け出すクズでありたい。

 たとえ誇りを捨てようと、
 たとえ人権を失くそうと、
 たとえ消えろと願われようと、
 ウンコし続けてやろうと思う。

 生きてるだけでスゴイ、エライ。

 そういうことにしておこう。生きてるだけで大変なのに、わざわざ自分からハードルあげて荷物を背負うとか、意味わかんないよ。マゾなの?

 ウンコしているだけでエライ、クサイ。

 そんな年にしたいとは思わないけど、それでいいのだ! と思える自分でありたい。そんな自分だけは頑なに守り続けたい。社会の圧力に屈せず、役立たずのまま居座り続ける図太さを身につけたい。さもなくば生きることへの罪悪感で死にたくなる。

 私がウンコしているだけでエライ!と思えるようなラブ&ピースな世界であり続けてほしい。

 平和が一番。でもこれ、私のようなザコにはどうあがいても貢献できない。だから私は何もしなくていい。むしろ手を出して迷惑をかけないことが最善だろう。というわけで、皆がんばえー。

 あ、まって。私がブログでバカを晒せば「俺はあいつより上だ。安心した」と皆に思わせてあげることができるかも。皆の不安やストレスを少しだけ解消して社会貢献できるね。私エライ。それが抱負ってことにしよう。でもブログを一日一つ書くとかにすると書けなくて「やっぱ私ってダメ人間だ…」ってなるからやらない。目標は私を殺す。

できる人が
できる事を
できる時に
できる分だけ
やる

やりたい人が
やりたい事を
やりたい時に
やりたい分だけ
やる

 実現できないことは分かっている。でもそれでいい。だからこその夢であり希望なのだ。なるべく、そこへ向かおうとする。それでいい。実現してしまえばただの現実に成り下がる。実らなくていい。思いを馳せることができれば、それでいい。向かうべき標になってくれれば、めざすべき希望がそこにあると錯覚できれば、それで救われるのだ。

 私は夢を、希望を、ロマンを求めている。断じて目標だの実現だの実績だのは求めていない。いや欲しいけど、求めたらそれができない自分に失望しちゃうからさ。わかるだろ?

皆どうしてる?

 私はあまりにもやる気がなさすぎる。自分で読み返してあまりの空虚さに唖然とした。これはヤバイ。こんなの記事に書くとかありえないだろ。なんとかしなくちゃ!

 そうだ、他の人のブログを見てみよう。

皆さんの記事 私の一言感想
知ることと知らないこと 禿同。私はニュースみるとつらくなる。テレビや新聞を見ると人や社会が嫌いになる。ツイッタープロパガンダの戦場だからもっとヤバイんだろうなぁ。
親子で趣味の話が出来るって、良くない? 情景と心情がよく思い浮かぶ記事。強い。私なら泣いて辞めてる。
目標を立てることの尊さを感じる瞬間
私とは真逆な所が多いけど救われるような素晴らしい記事。目標とは、不確定な未来に対して希望を込める行為である、という解釈の仕方が面白かった。だからこそ不安だけど一歩踏み出せると。勇気ある行為だと。興味深い。たしかにそうかも。その先もすごくいいこと書いてる。目標を立てる=願う、ことは目標達成の手段ではなく、自分を大切にしたい意志の現れであり、それ自体が価値ある行為という。目標を立てることを美しいと表するのは、私には絶対にできない。私は「やらなきゃ」と追い詰められちゃうから目標を決めないほうが捗る。
今年の目標2025 著者の方は自分を冷静に分析してそれを言語化して表現できている。見習いたい。端的であり具体的な所がいい。
1年の計は元旦にあり 強い。何をしてどうなったか。学習して改善して。どうしたいかも書いてて。割り切る所は割り切って。大変な中で自分で切り開いている感が伝わってくる。強い。
【あけましておめでとうございます】貫く、覚悟 わけぇ!かっけぇ!がんばえー! 初日の出、見せてくれてありがとう。てか普段から日の出を見ているのか。ワイ寝てる。

いい刺激をもらえた

 皆さん総じて自分の言葉で語れている。スゴイ。私はもうスゴイしか言えない。言語化する能力がない。

 ブログを読むと、そこに生の人間がいると伝わってくる。そんな文章を書けているのが、もうスゴイ。

 やっぱブログっていいな。アウトプットだけでなく、インプットするのもいいね。アウトプットのためではなく、ただ眺めるだけの目的のないインプットでもいいものだね。自分とカテゴリが合わない人でも、むしろ違うほうがいい刺激になることもあるよね。知ってたけど、中々やろうと思えないんだよね。

 いい刺激をもらえた。でも、こういうのっていつも「あ〜良かった」で終わっちゃう。身に付かない。そんなときは具体化して目標にすればいいと分かってはいるのだが、億劫だし、言語化できないし、調べるのが面倒だし。

 やらない言い訳を考えるのが得意。それが私。やりたくないなら、やりたくないとスパッと言いたい。でも、やりたいとか、やりたくないとかって話じゃない。こういうのはたまたま目に入って思わぬ出会いを果たすから、素晴らしいと感じるものなんだよ。いや皆の文章がダメとかじゃなく。

 ふと見上げた夜空に感動する時がある。あの感覚をまた体験したくて別の日に同じことをしても、あの感覚は体験できない。なぜか求めている時は得られないものなんだ。ぐぬぬ。だからね、今日出会えてラッキー! で終わっても、それでいいの。身につける必要ないの。むしろモノにしようとする卑しさを削ぎ落とすべきなの。だから私は大丈夫なの。いいね?

 ブログを書くことが、普段やらないことをするきっかけになる。他人のブログを見るのもその一つ。やはりブログは継続したい。

 まあ、皆のブログを読んだ所で、私の中身の無さっぷりはどうにもならなかったけど。だって人の日記をインプットしても自分がその人になれるわけじゃないし。その経験が身につくわけじゃないし。……やめよう。これ以上は考えないほうがいい。

思い出してきたブロクへの思い

 久々にブログ書いているうちに、当初の思いを少しずつ思い出してきた。

当初の私:アウトプットするって言ったよね?

現在の私:あ、忘れてた

当初の私:てか、去年ぜんぜん投稿してなくね?

現在の私:だってブログ書くの大変だし

当初の私:じゃあ何してたんだよ

現在の私:ソースコード書いてGitHubに上げてたから!

当初の私:チッ!ちゃんとブログも書けよ

現在の私:アウトプットはしてたからセーフ

当初の私:チッ! それも途切れ途切れだろうが!

現在の私:いや75%は草生えているから! ほぼ毎日書いてたから!

当初の私:足りん! 毎日やれ!

現在の私:それはムリ

将来の不安!

 ブログを開始したのが2016年。あの頃は「アウトプットしない奴には人権ない死ね」と世間に言われているような気がしていた。今でもそれはそうだろう。むしろ今のほうがそうだろう。

 ついていけない。もはや私には、あの頃の若さがない。まだ十年も経ってないのにね。世の中についていけない。去年も言ってた気がする。いや当初からそうだった。

 昔を思い出した。その上で、老衰を実感した。

 悲しいね。

 若い頃の写真とか残してても「昔は良かったなぁ。それに引き換え今の私と来たら……」となりそうなので残していない。でも、ブログを残してしまったら自虐する根拠が残ってしまう。しまった! これは孔明の罠だ!

 あんまり「こんなことが出来るようになったよ!俺スゲー!」みたいなこと言うと、後々でじわじわ効いてくる気がする。「あの頃は若かったなぁ。今はもう出来ないや……」ってなりそう。

 怖い。やめて。明日が怖い。老衰する未来しかない明日が怖い。

 この現実に立ち向かい、如何にして記事を書くか。

 いや、ムリっすわ。ないっすわ。そんな意志。

自分に正直に生きるための勇気を持ち続ける

 大丈夫、どうせ死ぬんだ。ならあとは、どう生きるか、だろ? ウェイ! たとえ老衰するしかなくても、逝くしか無いぜ!

 やだ。

 正論は正しさを得られるが、心を傷つける。

 嫌なものは嫌。やはりそう言える自分でありたいという所に行き着く。我慢したくない。言いたいことを言う。それこそ、生きているうちにしかできないんだから。

 嘘をついて無理やりポジティブとか反吐が出る。本当に前向きならネガティブであることも前向きに受け止めることができるはずだ。それをわざわざ言い換えるとか、考え方を変えるとか。それこそネガティブじゃんか。

 そうじゃないだろ。

 なぜネガティブな自分を素直にそのまま受け入れてやれないのか。その否定的な考えのどこがポジティブなんだ。偽物のポジティブ教に洗脳されないよう、きっちり自分を守り貫き通したい。偽りの言説を吹聴するメディアに踊らされず、強固な自分を持ち続けたい。思考破棄せず、強固な論理で自分の信じる想いを象りたい。願望ではなく事実を根拠にして信じたい。

 どれだけ自分に不都合でも、事実を受け入れた上で、自分を認められる自分でありたい。事実を偽り歪めねばいられぬ心の弱さをもちつつも、それをそのまま正しく認識し、虚飾や虚勢を張らず、そんな自分を偽らず歪めず、そのままの情けない自分を晒せるような、弱く勇気ある自分でありたい。

 たとえ孤立しようとも自分を変えたくない。どれだけ死に近付こうとも、自分を曲げたらもう自分が生きているとは言えなくなり、すべてが台無しになる。それだけは嫌だ。物理的に生きているだけでは満足できない。それができないなら死んだほうがマシ、というほどの強さや勇気はないけれど、その弱さを素直に晒す勇気だけは持ち続けたい。

 自分に正直に生きる。

 この思想・信念・性分に名前はいらない。抱負だとか目標だとかいうお題目もいらない。覚悟だとか決意表明だとか大げさで格好いい大義名分もいらない。何の言い訳もせず、装飾もせず、私はそのように生きたいだけだ。卑しく汚いエゴなんだ。それが生きることの本質なんだ。年が終わろうが明けようが変わらない真実なんだ。