やってみる

アウトプットすべく己を導くためのブログ。その試行錯誤すらたれ流す。

ストレス発散に叫びたいけど叫べないストレス社会

今週のお題「叫びたい!」に答える。

思いっきり声を出したいけれど、なかなかできない? はてなブログがあなたの「叫びたい!」気持ち、受け止めます。今週は「叫びたい!」をテーマに皆さんのエントリーを募集します。「幸せいっぱいで叫びたいこと」「ストレスを発散するために叫びたい!」「叫びたいときにおすすめの場所」など、あなたの「叫びたい!」についてぜひはてなブログに書いて投稿してください! ご応募をお待ちしております。

 そこまでいうなら受け止めてもらおうか。

ストレス発散に叫びたい?

 そもそも叫んで発散できるような単発的なものではない。持続可能ストレス社会。そこで叫べば変質者としてタイーホされる。こんな世紀末の中では愛も叫べないし取り戻せない。私たちは大切なものを失いました。それはあなたの心です。神は死に、愛は失せ、人は鬼と化す。ようこそNHK(日本悲惨協会)へ。

叫んでストレス発散?

 自分の中にある破壊衝動をぶちまけることでスッキリしたい。という欲望が「叫び」という攻撃になる。ほんとうはぶっ殺したりぶん殴りたいところを抑圧されていて、やむなく叫びという弱化したもので代用したにすぎない。しかし現代は叫ぶことすら迷惑であり害であり悪であり糾弾される弱みになってしまい、うかつに叫ぶこともできない。それがストレスだ。他人がストレス源なのだ。

 子供の叫びすら迷惑だからと公園が消える社会。私たちは公共の概念すらなくしてしまった。それほどにまで他人が嫌いなのだ。俺様第一主義なのである。自己中しかいない。公共の場をマイワールドとして闊歩する勘違い系社会人たち。オレオレ詐欺はいよいよもって詐欺でもなんでもない現実になってゆく。詐欺だといってよハンニン。

 叫ぶ方法はある。だがせいぜいカネを払って小さい個室でヒトカラるくらいが関の山だ。そんなみみっちくせせこましい環境それ自体がストレスなのだから、ストレス内で叫んだところで解消されるはずもなく。むしろ叫べば叫ぶほどに己の惨めさが自覚できてしまい、もう叫ぶ気力すら失ってしまう。俺は一体なにをやっているんだ……orz

 いいか? なぜ叫びたいかといえば、この牢獄じみた社会から脱獄したいからだ。なのに自腹を切らねば叫ぶことすらできない。そんな世界から逃げたいから叫びたいんだ。なのに叫びたい欲求すら計算のうちで、カネを支払わされ迷惑者扱いする諸悪の根源、社会。悪の枢軸は救世主の顔をしてやってくる。ストレスをかけておいて、発散させてやるんだからカネを払えという。なんというマッチポンプ。これが世界の支配構造である。

 叫んだって救われない。なにひとつ解消されない閉塞した現実。迷惑だといわれて社会から排他されるから我慢していたのに。覚悟をもって叫んだって何も変わらないのに。叫びたい? ちがう。そうじゃない。

 たすけて。声にならない悲鳴は興味のない商品のCMでかき消された。

 ストレス発散? そうじゃないだろう。なんでこっちばっかり対処しなくちゃいけないんだ。個々人がストレスを解消するんじゃなくて、社会がストレスを負わせる環境を改善しないとダメでしょうが。さもないといつまでたっても改善しない。対症療法だけでは「今のままでいいんだ」と思って、一層悪い方へ偏り続ける。

 どうせあれだろ。被害者ヅラすんなっていうんだろ? ケッ、これだから加害者は! 実在する特定の人物に当たると正義(笑)の名のもとに叩かれるので、架空のだれかにやつ当たる。これが私の処世術。

 はっきりいおう。私は当たり散らしてストレスを発散したいだけだ。正当性とか妥当性とかそういうのどうでもいいんで。見当違いの説教へ釘をさす。今どきは360度、全包囲に予防線を張らないと迫害される。ポリコレだかナニコレだか知らんがパリコレのごとく見世物にされるのは御免こうむる。

 もうダメだ。最近は完全に人間を見限った。もちろん自分自身も含めている。すべての現代人に対して失望した。叫んでもどうにもならない。叫ぶ気力もない。叫ぶ元気があるだけマシ。果てしなく下降してゆく21世紀をいつまで生きねばならないのか。

 もうイヤだ。君が嫌だと叫びたい。俺が嫌だと叫びたい。生きるのが嫌だと叫びたい。叫んでも仕方ない。ならば、消えて無くなりたい。

所感

 中身がなくても意味不明でも支離滅裂でもいい。なんかぶちまけたらスッキリする。吐き出すのは大事。叫ばなくてもいい。タイピングでもヌける。指先ひとつでダウンさ。世紀末救世主伝説。救いはまだか。コスモはどこだ。オーラロードはまだ開かれないか。レッツコンバインする相手はどこに。叫んでもドン引きされるだけのようです。

対象環境